2018年01月10日

コーヒー&チョコレート

人間が一番カロリーを使うのは筋肉系統ではなくて脳だ。
ある程度、年を取ってから恰幅が良くなるのは新陳代謝の問題だけではなくて。
年齢を重ねれば、脳をより効率よく使用できているのじゃないかと思っている。
特に、一番、脳がカロリーを使用しているなぁと思うのは、感情が動いた時だ。
誰にでも経験があると思うけれど、泣きじゃくったり、激怒したりすると、とても疲れる。
あっという間に睡魔に襲われる。
感情の爆発というのは、脳内でも、様々なホルモン分泌と、様々な記憶との結合とが同時に起きている。
どんなに難しい計算をしたり、プログラムをしても、感情爆発には勝てないだろうなぁと思う。
それぐらい、興奮するほど、一気に眠くなるよなぁと実感がある。

自分は、頭脳労働をする時に、大体、用意しておくものがある。
コーヒーとチョコレート。
とにかく、カフェインがないと、突然、眠ってしまいそうになる。
それに、チョコレートで糖分を定期的に摂取しないと、ぼんやりしてくる。
だから、監督との編集の時は、必ずその2つを用意しておいた。
おいらが用意したチョコレートを監督も口にする。

クリエイティブな作業をしている時。
心が動いているのと同じようなことが起きているのではないかと思う。
もちろん、数学的な、パズル的な脳も使うし、文学的な美術的な思考も同時進行しているのだけれど。
それと、同時に、自分の心に響いているか、常に確認しているような感覚がある。
ざわっと、後頭部の周りが痺れるような感覚が、クリエイティブな作業をしているとあったりする。
脳内でなんらかのホルモンが分泌されているのだろうなぁと思う。
でも、別に、ハイになるとか、心地よいというのともちょっと違う。
あの感覚はなんて説明すればいいんだろう?
自分で、創造的な作業を繰り返して、心に訴え続けるのは、その瞬間を待っているようなところもある。

監督が編集中に、編集が終わっても、なんか編集したいなぁとか、続けたいって思うんだよ。
なんて、言っていたのは、ある意味、そういう部分もあるのかもしれない。
頭の中でイメージしたものを形にしていって、何かが生まれた瞬間の感動を、無意識に求めるようなこと。
小説書きでも、漫画家でも、絵描きでも、ミュージシャンでも。
何かを創作する時、出来上がったものに対して、痺れるような感覚を経験している人はたくさんいると思う。
というか、ほぼ全員経験しているんじゃないだろうか。

感情が揺さぶられることと。
創作すること。
この二つに、どんな共通点があるのだろう?
役者の持つクリエイティブは、実はその中間にちょうど位置しているのかもしれないなんて思う。
ミュージシャンでもいいけれど・・・。
プレイヤーは、クリエイトしながら、自らの感情を爆発させていく。
恐らく、そこには、明確に繋がる何かがあるのじゃないか。

ただ一つ、絶対に言えることは。
自分が感動しないと、人を本当に意味で感動させることなんて、絶対に出来ないという事だ。
クリエイティブな作業の中で生まれる感動がなければ、ちゃんと伝わることはない。
もちろん計算されつくしたロジック通りに製作したもので、売れることはあるかもしれない。
シンプルに、感動した!と口にするお客様もいるかもしれない。
でも、そんなのは、本当の意味の感動からはかなり縁遠い事なんだって思っている。
本当の感動は、感動した!なんて口に出来ないものだ。
雷に打たれたようなことだとか。
心臓が高鳴るようなことだとか。
もっと、直接的で肉体的な、体感があるものだ。
頭で理解して、理性的に感想を口に出来るようなものは、まだ本当の意味で感動に至っていない。
おいらは、そう思っているし、常にそこに向かいたいって思っている。

だから、繋がっていると思うのだ。
自分の脳内で痺れたその感覚を、共有していると思える瞬間があるから。
それは、体感しているから、真実そのものだ。
人は人の心を読むことなんてできない。
けれど、体感を共有することは出来る。
そして、その体感が、目に見えない心の動きとしての体感だったときに。
本当の共感を実感する。

コーヒーを飲む。
カフェインが、痺れた脳に、小さな刺激を与える。
チョコレートをかじる。
糖分が、失ったばかりのエネルギーを補給する。
クリエイティブな作業の中で、そうやって、小さなリセットをする。

そして、更に、感動とは何だろう?
と、もう一度、始めるのだ。

あと、ニコチンもね。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 03:28| Comment(0) | プロモーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月09日

冒険の始まり

成人の日だった。
年初の三連休。
どうしても、自分の記憶だと15日だよなぁと思ってしまうのだけれど。

毎年の恒例行事のように全国の成人式の模様が放送される。
子供のようだったり、大人びていたりだ。
今年は、晴れ着業者の夜逃げ騒ぎがあって、それが何度も放送されていたけれど・・・。

漫画家の尾田栄一郎先生が、自身の出身地でもあり、震災の被害にもあった熊本の成人にメッセージを送っていた。
それは、単純なおめでとうという事ではなくて。
ここから成人なんだよという、入口なんだぜというメッセージに溢れていて。
とっても、素晴らしいなぁと思った。

大人になってから成人式の話になると、ちょっとした世代間の話になる。
自分の世代の時はこうだったとか、会場がこういうところだったとか。
芸能人なんか来なかったけどなぁとか。
何年ぶりの大雪で、下駄じゃ寒くて大変だったとか。
人生の節目だとか、大事だとか言う人もいるし、女の子なんかはそうなのかもしれないけれど。
実際には、大人になってから、居酒屋で話す幾つかの世代間の話の一つにしかならない。
成人式の写真でお見合いをする人なんか、もういないだろうしさ。
正直、式典なんかよりも大きなことが、これから何度も何度も訪れるから。

だから、きっと、今年の成人たちは、これから大人になっていって社会に出てから話すことになる。
実は、自分の年の成人式で、着物屋が、夜逃げしたんですよ!って。
まず間違いなく、話すことになる。
着物を着れた人だって、男だって、話すことになる。
そして、たぶん、大笑いする。
酒を飲みながら、嘘だろ!って、大笑いをする。
着物を着れなかった子は、なおさらだ。
あの時は、悲しくて、悔しくて・・・と言いながら、きっと、笑う日が来る。
絶対にそうなる。
もしかしたら、一番悲しいのは親御さんたちなのだけれど。
その親御さんたちだって、何度も友人に話すことになるかもしれない。

なんだかおかしな話になっちゃうけれど。
そんな成人式をおくれたことって、いつかラッキーだったなって思えるかもしれない。

今は昔。
大人になるという事は、素晴らしい事だった。
それは、医学が発展していなかったからだ。
子供が無事生まれることだって、今ほど、確実じゃなかったし。
幼児が病気になっても、どうしていいかもわからなかった。
大人よりも、体の弱い子供は、ワクチンのない時代に真っ先に伝染病にかかった。
昔の人の平均寿命が今よりも著しく低いのは、子供の死亡率が高いのが大きく影響をしている。
だから、成人になるという事は、喜ばしい事だった。
江戸時代の元服にしても、明治以降の成人式にしても。

選挙権はもう違うけど、飲酒喫煙、税金、年金、各種免許、未成年法。
色々なことが変わる。
社会的には、そういうことになる。
でも、そんなに大したことじゃない。
残念ながら、生物的に人間は、昨日まで子供で今日から大人になれるような便利な生き物じゃない。
脱皮もしないし、羽も生えない。
少しずつしか成長できない。
まだ身長が伸びている子もいるだろうし、体質だってなんだって、まだまだ変わっている最中のはずだ。
ただ、社会的に、区切りが必要なだけで。
それを、お役所が祝ってくれる日に過ぎない。

多分、大人には、これから少しずつなっていく。
実は、おいらは、未だに自分が大人になれているかどうか不安で仕方がない。
大人げないなぁとか、子供かよ!とか、人には思うことがあるのに。
子供は良いなぁと口にしたら大人だよなんて言う人がいるけれど。
自分は、子供みたいに夢を見る人だなんて言われたりもする。

成人おめでとうございました。
「人に成る」だなんて、何様だよと思いつつ。
なかなか、人に成れていないおいらは。
自分の人生という冒険の入口に立つ皆様がとっても羨ましいです。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 03:13| Comment(0) | プロモーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月08日

2018年稽古始め

正月なんてたかだか1週間なのに、不思議と気持ちが緩む。
正月気分だとか、お屠蘇気分だとか、どこか気が抜けたビールのようになる。
それはゴールデンウィークともお盆とも少し違う感覚だ。
ともあれ、芝居のことを全く考えていないわけでもないはずなのに。
芝居のことを、ちゃんと考えないと、どこか落ち着かなくなっている。
なんか、緩んでいるんじゃないか?と、不安になってしまう。

稽古は3班に分かれて進む・・・。
とは言え、まだ1班は稽古には入れていないし、1班は稽古しつつもキャスティングまで固めていない。
それぞれ、進むスピード感が違う。
自分の班はその中でも、スピードを重視している。
早い段階で完成させてから、飽きて、一度壊すぐらいの時間を持てればと思っているからだ。
あえて、スピードを出して芝居を創ってしまってから、もう一度考える余裕を欲しいと思っている。
別にそれは、創り方だから、何が正しいわけでもないし、映像の世界じゃありえないやり方でもある。
役者であれば、どんな創り方でも、どんなスピードであっても対応出来るべきで。
今回の企画では、そういう創り方を出来るから、中々出来ない機会だし、そうしたいというだけだ。

だから、キャスティングは稽古初日から終わっているし、全体の流れまでは旧年中に創ってある。
後は少しずつ、芝居のディティールを固めて、流れの軸も太くしていきたいなぁという段階。
2018年初稽古も、ガチでゴリゴリに芝居を構築するという手もあった。
でも、正月期間中に、どんなことをしたらいいかなぁと考えていて、ちょっと違う方向にした。

ピンポイントで2か所ほど。
口立てでの、芝居作りというのにした。
口立てというのは、その場で役になり切った状態でアドリブで芝居をしていく。
その芝居が面白ければ採用するし、もっと面白くなるようなら、工夫して再度挑戦する。
そうやって、あくまでも役になった状態で、自然と出てくる言葉を拾い上げていく作業だ。
もちろん、台本通りにがちがちに芝居を創ってから壊す場合もあるし、壊さないでその中で工夫する場合もある。
けれど、正月明け早々だし、脳を柔らかくして、芝居に入れるような方法論はここかな?と思った。
芝居脳が働くほど、瞬間的なひらめきが下りてくる。
音楽で言うならセッション的な世界観の中で、自分でも思っていなかったリアクションが生まれる。
そういう芝居を、一つづつ拾い上げていくような作業だ。

アイデアはどんどん出てくる。
演じている本人からも、観ている人からも。
思っていたのとは違ったり、肉体感覚から生まれてくるようなものであったり。
少ない時間でも、ぐるぐると頭の中が芝居脳で埋まっていく。
待てよ、こうじゃないかなぁ?なんて言いながら。
集中して芝居を考えて、我を忘れているなぁと途中で気付いた。
忘れずに、時計を睨む。
時間感覚だけはキープしておかないと、はまってしまう。

もちろん、口立てで出来上がったシーンがそのまま本番まで続くかもわからない。
どこかで飽きてしまうかもしれないし、流れで観たら不自然すぎる場合もある。
役の中で創ったつもりでも、前後との関係で、役を逸脱している場合もあるかもしれない。
そうなると、稽古でやったことは無駄だったのか?という可能性も出てくるのだけれど。
実は、それもまったく無駄ではなくて、セリフに縛られずに柔軟に芝居脳を使うことが別の事を生む。
他のシーンが、いつの間にかよくなったりするのは、役が肉体に入る入口を見つけた後なわけで。
そういう助けになるのがこういう稽古なのだと思う。

偶然にも、その後の班の稽古を観ていたら、監督が同じようにピンポイントの稽古を始めた。
口立てではなかったけれど、色々アイデアを出せと言う、芝居脳を柔軟に使わないと出来ない稽古。
台本のほんの5~6行の箇所を、様々な方法で試して見ようという稽古になっていた。
別にうちの班の稽古を観ていたわけでもないから、本当の偶然なのだけれど。
充分に柔軟体操が済んだおいらの頭でその稽古を観るのもとっても楽しかった。
中々、自分の中の自意識は常識や思い込みという呪縛から抜け出せないで柔軟になり切れなかったり。
思考の飛躍をどこまでしていいのか探り合っていたり。
或いは、相手役が、自分の事のように感じているか感じていないかであったり。
ついさっき、やっていただけあって、見えなかったものまで見えているような気がした。

自分の班の事ばかり考えているわけにもいかない。
興行としては、同じ興行なのだから。
全体として面白くなるように、考えていけたらいいなぁ。
もちろん、監督の視点があるわけで。
そこにちゃんと向き合ったうえでだ。
まだ稽古が始まってさえいない班については、心配になってきた。
まだ時間はあるし、良い方向に進むと思ってはいるけれど、自分の事のように考えないとと言い聞かせる。
知らない!とした方が、ずっと楽なんだけれど、そこで楽をする自分だと、自分が嫌いになってしまいそうだから。

なんにせよ、稽古が始まった。
もう一度、芝居脳が動き始めた。

2018年も、芝居の事ばかり考えるのだろう。
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posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 17:56| Comment(0) | プロモーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする