2017年09月21日

受け継がれる意思

北野武さんが浅草に行き、師匠について話すというスペシャル番組を観る。
なんというか、心に染み入る番組だった。
たけしさんの演じる鬼瓦権蔵は、師匠にそっくりなんだそうだ。
まるで、乗り移ったかのようだったと、当時の踊り子さんが証言していた。

おいらが、すげぇなぁ。すげぇなぁと、何度も思ったこと。
それは、何度も何度も、師匠の芝居がうまいとたけしさんが繰り返し言ったことだ。
テレビに出た人じゃないから、証言しかないのだけれど。
とにかく、芝居がうまかったと何度も何度も口にした。
あんなにうまい人はいないと。
もちろん、弟子の視点だし、当時の観客の証言ではないけれど。
きっと、心から惚れ込んだ芝居だったからこそ、そういう言葉が出てくる。

結果的にたけしさんの方が有名だし、売れっ子だし、神様のように言われちゃうしなのに。
自分は、師匠の芸の足元にも及ばないと、本気で思っているのがとても伝わった。
師匠に勝てたなんて、恐らく、一度も思ったことがない。
むしろ、師匠は売れなかったけど芸を極めた人で、自分は売れたけど芸を極められていないなんて言う。
売れるというのは、どうしても、ゴールにならないんだろうなぁ。
売れたって、乾いているのがとってもよく伝わってくる。

弟子と言うと、色々と教えそうなものだけれど。
聞いていると、どうも、教えているような雰囲気はなかった。
とにかく、付き人で、いつも一緒にいる。
芸は観て盗めという事で、自分に良いも悪いも言わないし、教えるようなこともしなかったらしい。
・・・そんなシャイな師匠がいるんだなぁ。
でも、苦しかったともたけしさんは口にした。
自分の芸の足りなさ、師匠と舞台に上がる緊張感。

どうしても、ツービートで売れたから漫才と言うイメージが強いけれど。
ストリップ小屋でのコントから始まっていて。
コントがしたいのに出来なくなって、漫才をすることにしたなんて言い出す。
すぐに、戦場のメリークリスマスをはじめとして、俳優としても活躍したけれど。
喜劇俳優になりたかったんだ。芝居をしたかったんだ。と思ったら。
なんというか、なんというか。
急になんともいえなくなって、泣きそうになった。

師匠を観ていたから、映画の座頭市では、殺陣師を入れなかったらしい。
自分で殺陣は全部考えたって。
それは、師匠の立ち回りをみていたからだと。
何年経っても、基礎がある。観て盗んだものは忘れない証拠だ。

今も一緒に舞台に上がっていた浅草の芸人なんかも現役で舞台に立っていて。
インタビューなんかに答えていた。
印象的なのはさ。
浅草をやってるよ、だって、映画も海外で評価されるけど大ヒットしないでしょ?その感じが。
・・・なぁんていう言葉。
世界の巨匠になんてこと言うんだとも思うけれど。
浅草と言う出自があって、師匠と言う物差しがあって、その上で自分の表現を突き詰めている。
だからこそなんだなぁと思う。
お笑いタレントや俳優や監督や色々な顔を持つけれど、根っこに浅草芸人がどんと居座ってる。

芸には、やっぱり、DNAがあるんだなと思った。
遺伝していく。
それは、血縁よりもずっと濃いのかもしれない。
生まれる以前に決まる人間の設計図を、学ぶことで越えられる。
神が作ったバトンを、人間が作ったバトンが凌駕する。
芸の遺伝って、きっと、そうだ。

自分の胸に手を当てる。
自分が運んでいる芸のDNAを思う。
遺伝している。
もちろん、監督の教えもあるし、芝居の師匠の言葉もある。

この道にいる限り、それを運び続けないといけない。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 03:37| Comment(0) | プロモーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月20日

まぼろし

葬儀。
冠婚葬祭でもないと集まらないような一同。
風習と因習と、祈り。
思い出。海風。

いつかの夏休みと。
いつかのお正月と。
いつかの笑顔が、次から次。

家族は増える。
家族は減る。
その繰り返し。

皆、傷つきながら生きている。
純粋過ぎた頃の記憶は、だから、まぶしすぎる。
傷は癒えるわけではなくて、慣れることで抱えながら生きている。
慣れるまでは、出来なかった話も、今ならできる。

とんびが飛んでいた。
ピーヒョローと鳴いていた。
とんびがとまってた。
空高いときは美しいのに、近くで観れば、大きさばかりが目立つ。
あれほど、大きかったか。
あれほど、威風堂々としていたか。
ピーヒョロロー。

線香の煙。
献花の色。
念仏の音。
献杯の味。
陽射の傷。
五感に残る、いつかの夢。

まぼろし。

おいらも歩く。
彼岸まで。涅槃まで。

あなたのように。
あなたたちのように。

とんびが、輪を書いた。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 02:22| Comment(0) | プロモーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月19日

心のありか

恋をすると胸が高鳴る。
だから、昔の人は、心がある場所は、胸だと思っていた。
近年になって西洋医学が発展すると。
そうではなく、恋をすると脳内でホルモンが分泌されることがわかった。
心のありかは、どうやら、脳の中にあるなんて思われるようになった。
ところが、最近の医学では、心はどうやら脳内だけじゃないかもしれないと言われ始めている。
胃は直接感情に作用すると言われ、腸には記憶をする能力があると発見される。
ホルモン分泌は脳内だけではない、と、次々に報告が上がっている。
心はどこにあるの?と聞かれたら、今は全身と答えるしかないんじゃないだろうか?
もちろん、その多くの機能は脳が担っているのだろうけれど。

どうしても、分析するときに、人は区別をしてしまう。
先週と今週、昨日と今日。生と死。
けれども、実際には、全ては連続していて、境界など曖昧でしかない。
曖昧だからこそ、人がここを区切りと定義しているだけに過ぎない。
脳も、頭蓋骨内にある脳神経の塊を指しているけれど、実際には連続している。
脳は延髄から太い神経網が繋がって、指先の神経まで繋がっている。
実際には、目だって、指先だって、脳と繋がっていて、一部だと言ってもいい。
そう考えてしまえば、神経網が全身にある以上、心のありかはやはり全身なのだと思う。
心と体を分別して考えてしまいがちなのだけれど、心と体は切り離せるものではない。

人の死も、実は連続していて、どこを境界としているかなんて実際には曖昧だ。
脳機能を始めとした神経網が絶え、内臓器官が徐々に機能を停止していく。
肉が腐り、皮膚が落ちていく。
それでも、まだ皮膚は呼吸を続けて、毛髪は伸び続ける。爪だって伸びる。
死は連続した現象であって、もっと言えば、腐乱した有機物を植物や昆虫が摂取することで更に繋がっていく。
それでは、社会が成立しないから境界を創る。
脳神経が停止した状態を脳死として、死と認定したり。
心臓が止まり、瞳孔が開いた状態を、死と認定する。
なぜ、その時点なの?と聞けば、そこに自我がなくなった時と言う判断だ。
つまり、現代の死は、心がなくなった時ということだ。
人は、人を、心で判断している。
肉体は器に過ぎず、自我こそ、その人そのものだと社会派認識している。
よくよく考えれば、まるで論理的じゃないなぁと思う。

科学全盛の世の中にあって、心を基準にしているなんて不思議なことだなぁと思う。
思ったよりも、人は、心を軸に、世界を構築している。
ロジックで全てを割り切れるわけがないのだ。

心と体を別にすることが出来ない証拠は山のようにある。
緊張による震えだって、例えば怒髪天を衝くなんて言葉一つでも。
肉体と心が常に、繋がっている証拠だ。
芝居を突き詰めていけば、肉体反応まで行きつく。
いつでも泣けますよと言う演技は、ただの涙腺反応のコントロールに過ぎないけれど。
泣くつもりもなかったのに自然と涙が流れるという状態になるのは、肉体反応だ。
怒りで血管が浮き出るようなことも芝居では起こりうるし、震えが止まらなくなることだってある。
そういうテイにしているのではなく、実際に自分の肉体がコントロール不能になることもある。
そういう時ほど、心と肉体を分けることは不可能だなぁと感じる。

心なんて目に見えない。
見えるのは心の動きで起きる肉体現象。
そしてその心を扱うのが演技。つまり肉体を扱うのと同義。
そして、それを作品にしていくのが演劇であり、映画でありということだ。
だから、芝居は世界最古の職業の一つであり、これからもなくなることはない。
目に見えないものを、目に見えるようにしているのだから。

きっと、芝居をすること。芝居を観ること。
それは、心について考えることと同じことだと思う。
心のありかはどこなのだろう?
心って何なのだろう?
自我ってなんだろう?
自分って、結局、なんなんだろう?
そういうすべてのものが、繋がっていく。

心の健康は大事だよ。役者をやるのであれば。
心の底から笑える人じゃなきゃ、芝居は歪んでいく。

先週今週と、どんどんテレビドラマが改変期で最終回を迎えている。
様々な心の形が描かれている。
それは、同時に、自分の心を観ているような気分になってくる。
セブンガールズを公開する日、きっと、同じようなことが起きるのだなぁと、考えたりする。

こんな心の形。
それを見て、どんな自分の心を観てくださるのだろう?
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 03:46| Comment(0) | プロモーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする