飽食の時代である現代。
物が溢れて、情報にまみれて、まだ少年と言えるような年齢ですら、情報端末を常備している時代。
わからないことは、端末に声を書ければ即答してもらえるし、観たことのない景色だって、すぐに確認できる。
食べる食料と廃棄する食材の量が、さして変わらないこの時代に「SEVEN GIRLS」が上演される。
なぜだろう?
まず言えるのは、この作品が求められたことは間違いないという事だ。
そもそもが舞台作品であり、古くは14年前に上演された作品だというのに、多くの声を頂き再演を重ねたのだ。
もちろん、求めたのは現代を生きる人なのだから、ただ「面白かった」だけではないはずで。
それがいったい、無意識的な部分も含めて、どこから渇望されたものなのか、しっかりと考えなくてはいけない。
作品の舞台は、現代とは似ても似つかない状況下にある。
誰も想像すらしていなかった敗戦。圧倒的な火力による焼野原。健康な男手の不足。スーパーインフレ。
誰もが、とにかく、その日食べるものをどうやって工面するのかしか考えられなかった時代。占領下。
ある意味、現代から見ればファンタジーと言っても良いぐらいのギャップ。
自分たちがこれからどうなるのか?いつまで占領が続くのか?男たちが帰ってくるのか?
何もわからない中、生きていかなくちゃいけない。
夢も、希望も、もちろん恋も、贅沢品だった時代。
こんなことを書くと怒られてしまうかもしれないけれど。
おいらは、そこに、「憧憬」を感じている。
それほど厳しい時代なのに、そんな厳しい時代にどこか、憧れていないだろうか?
男が時々口にする「俺が幕末の時代に生きていたら・・・」に近い感覚。
終戦直後に憧れるなんて、どこか不謹慎に思えるけれど、この場合、時代に憧れているのではないと思う。
映画「三丁目の夕日」の公開時に、「あの時代は良かった」という声が複数上がったのにも違い。
今と比べて”足りない”ことが、どこか、憧れになっているというパラドクス。
それは全て「心」の問題じゃないだろうか?
夢を持つことがぜいたくで。
希望を抱くことがぜいたくで。
恋をすることがぜいたくだった時代。
そんな中で持った、夢や希望や恋が、どれだけ純粋なものだったか。
生きるためにそんなことをしていられないのに、生まれたもの。
その強烈な「心の動き」に、現代から観ても憧れを抱いてしまう。
何が真実で、何が本当か、境界線がどんどん曖昧になって行く。
実際に逢って話さないと、本当のことなんか何もわからないのに。
いつの間にか手紙になって、電話になって、メールになって、チャットアプリになった。
そして、いよいよ、VRの時代が幕あけしている。広大な電脳世界で合うことが出来る時代が近づいている。
どんな時代でも真実を求める人はいたのに、こんな時代に「真実」という言葉の持つ力は反比例して強くなっていく。
極限状態で持った夢。
どん底で見上げた希望。
本能で求めた恋。
どれも、現代人が求めても手にすることが難しいような心だ。
難しいけれど、もしかしたら、手にすることが出来るかもしれない。
或いは、自分の持つ夢や希望や恋だって、負けていないんだと思えるかもしれない。
そういう憧れだ。
この映画の持つ純粋さについて話したときに。
それは、この映画を企画して、製作して、公開に進む、おいらたちの信じられない純粋さの話だったかもしれない。
けれど、それは、同時に、企画の持つ純粋性とリンクするかのように、物語の持つ純粋性と重なっていく。
まぶしいような、人間の持つ美しさがある。
断言できる。
ラストシーンで誰もが彼女たちを美しいと感じるだろう。
これが最大のこの映画の持つ力じゃないだろうか?
それが最大のこの映画が持つ現代へのメッセージではないだろうか?
美しくありたいから。誰だって。