2018年02月12日

目を見て話す

稽古日。
稽古場に着くなり、代役で、本読み参加。
その後、その班での話し合いがあったようで。
そのまま、自分の班の稽古に。

役者の休みが続き、代役や解釈の稽古ばかりだったから、つるりと流す。
細かく止めながらの稽古は、またすぐに始めるけれど、まずは流れで。
流れでやると、相手役の芝居での変化とかが多くなる。
今、どのぐらい関係性が出来ているのかを中心に。
気になったところを必ずいくつかあげて、調整していく。
美術的にも、出はけ口が確定したようだから、動きも確定していく。
来週からは、章分けして、一つ一つの動きや立ち位置まで決定していければ。

先行して稽古を始めているから、良い具合に、芝居に飽き始めているはずだ。
飽きることが出来るというのは、すでに言葉や関係、動きが体に落ちてきた証拠。
流れてしまうような、するっとやれてしまうようなことも起きる。
それから、ここの強調が足りないとか細かく、チェックしていく。
フレッシュな感覚を取り戻すとすれば、舞台に上がったり、音楽が流れたり。
状況が変わる日まで、なかなか難しいけれど、その日までに完全に体に入れば、良いなぁと思っている。

自分の班が終わって、前の班の人に声をかけた。
長く、作品の選定を繰り返してきたけれど、ようやく作品が決まったとのこと。
これで、5月の企画公演の作品が出揃った。
少人数の班分けをしたからこそ出来ることがある。
監督もそうだけれど、おいらも音楽のバンドをやっていて。
4~5人という単位だと、お互いに忌憚なく意見を言い合うことが出来る。
人数が増えすぎると、余り話し合いに参加しない人や、役割固定が起きていく。
それ自体は悪い事じゃないけれど、表の話し合いは、逆に足が重くなって。
むしろ、係分けして分担して、運営していかなくちゃ、どうにも進まなくなる。
その点、人数がすくなければ、係に分けることなんかできない。
約3か月、作品選定に時間はかかったけれど、それ自体は、悪い事じゃない。
今度は少人数での作品作りに入るわけだから、そこからが本番だ。

決まったんだなぁと思いながら最後の班を見学。
台本が進んでいて、役者たちが苦悩している。
何人か、風邪などで休みがいたから、同じメンバーで延々と稽古。
代役をする機会もあるかと思ったけれど、登場人物がそこまでいなかった。
見れば見るほど、まったく経路の違う作品が揃ったなぁと感じる。
面白さ自体も違うし、スタイルまで違う。
同じ劇団とは言え、メンバーも違うし、稽古を重ねていけば更に変わっていく。
別に勝負をするわけではないから、それぞれの毛色が際立っていけばいい。

稽古後の呑みに行く。
結局飲み屋でもディスカッションを重ねる。
とにかく、決まったことは良かった。

さて、詳細をWEBで発表して、宣伝材料をそろえたりしていかなくてはいけない。
それぞれの作品の紹介が出来る段階になったら、一気に進むだろう。
今はまだ速報の仮タイトルと期間だけのままだ。

2月の半ば。
良い時期の発表が出来る。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 17:53| Comment(0) | プロモーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月11日

デジタル加工

久々に画像加工の1日。
先日、見学した次回公演の劇場の写真を加工してみる。
とにかく、ビジュアルで理解できるものがないと、提案にもならない。

セブンガールズの最初のロケ候補地に美術スタッフさんと行った時に写真を撮影していた。
後日、美術イメージを持ってきてくださったときに、そのあまりにも素晴らしいイメージに驚いた。
これは、どうやって作ったんだろう・・・?と想像して、感動していた。
ロケ地で撮影した写真に、多くの、建具や家具の写真を合成して、彩色して、完成させていた筈だ。
どうやってイメージを作成したのかは聞かなかったけれど、その技術に舌を巻いた。

流石に、あのレベルまでPhotoshopを使いこなすことは出来ないけれど…。
でも、大体、どんなことをやっているのかは、想像できる範囲がある。
次回は企画公演だから、予算枠的にも自分たちで美術のあるレベルまではやらなくてはいけない。
・・・とは言え、監督がOKを出すには、図面やイメージ、模型などで説明が必要で。
そのイメージ画像を、ひょっとしたら作れるんじゃないかと思っていた。

以前の企画公演では、素舞台に床、黒幕での仕切りという、最低限のセットにしていた。
けれど、監督から、ちゃんと美術を組まないとダメじゃないか?という言葉があって。
やれる限度はあるものの、創られたものをきちんと考えるようにした。
建て込みの時間だって、そこまで多くとれるわけではない。
それでも、あのパンパン小屋を自分たちで組み上げた仲間が揃っている。
シンプルで、けれど何もしていないような感じではないものを、ちゃんと考えようとなった。

劇場見学の際に撮影した写真を土台にして、舞台を組んでいく。
それはまるで、仮想で大道具を仕込むことと同じ作業だった。
幕の画像を幕を張る場所に重ねていったり、床を貼ってみたり。
奥に設置するものから順番に重ねていくと、どんどんイメージ通りになっていく。
最後にいくつかの道具と、役者の画像を重ねた。
出来上がった画像は、ノイズを加えて、奥行きを感じるように、ピントを決めて周りのぼかしを自然に加えた。
こういう作業はしたことがなかったけど。
思ったよりも、実際に舞台で撮影した写真みたいになった。
素人でもここまで出来てしまうのだから、画像加工の世界はすごい進歩をしている。
どんな美術なのかイメージするには十分なレベルまで、一応、追い込むことが出来た。

カラーコレクションやタイトルなどを覗けば、セブンガールズはほぼほぼ加工をしていない。
今は、CGもあるし、動画でも、様々な加工技術がある。
自動的に検出して、女性の肌の色だけ綺麗にするようなことも出来る。
凄い時代になったものだなぁと思う。
こんな時代でも、平然と写真週刊誌が白黒写真で、激写!なんてやってるのが信じられない。
あんなものは、素人にだって簡単に合成して作れてしまう。
そうなると、何が本当で、何が嘘なのかもわからなくなる。
いつか、加工した写真を間違えて掲載してしまって、ネットの住民がそれを暴くなんて日が来そうだ。
海外のモデルの写真では、加工を暴くのがブームになっていて、よくニュースになっている。
笑っちゃうのは、女性モデルの足が3本あるような写真までみつかっていて。
とっても自然に足が3本あることに、ちょっと、驚いたりする。

頭の中のイメージを人に伝える。
その為に、表現がある。
写真、彫刻、絵、文章、図面、演劇、映画、音楽。
デジタルはその表現の幅を広げる道具だ。
ただの記録である舞台の写真が、まるでセットを組んだ舞台の写真のように生まれ変わる。
道具は、どんどん便利になって言ってる。

画像加工なんて・・・と思うかもしれないけれど。
やったことのある人は知っているはずだ。
これはこれで、とても、クリエイティブな作業だ。
ちゃんと習って、仕事としてやっている人は、もっとクリエイティブなんだろう。
そういう頭を使えたのは、なんとなくよかった。
きっと、稽古場で、クリエイティブな作業をすることにも繋がるような気がしている。

隅から隅まで創造的。
それこそ、舞台なのだ。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 04:37| Comment(0) | プロモーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月10日

肯定が生み出すもの

インターネットでの情報の広がり方のスピードの違いを感じている。
1つ報道が出ると、当然、肯定と否定の両方の意見が出て、それは平等なのだけれど。
どうも、否定的意見の方が圧倒的に広がるスピードが速くて、あっという間に覆いつくす。
何か問題があって、それに対しての否定という場合もあるのだけれど。
時々、行為そのものではなくて、その人の生き方のようなものへの否定まで出てくるのが見苦しい。
例えば政治のことを意見するなら理解できなくもないけれど、呼び捨てにするような書き込みは、観ていて気持ち悪い。
例えば大相撲の問題で意見するならまだ理解できるけれど、人間性に触れるようなことを見ると厭になる。
その辺の井戸端会議だったら問題ないけれど、人が観ているネットでも、そういうことがある。

理由はたった一つで、言葉の力関係なのだと思う。
肯定の言葉と、否定の言葉では、圧倒的に否定の言葉の方が強い。
厳しい意見の方が、過激になりやすいし、エキセントリックになる。
肯定の言葉は、基本的に修飾語の連続になりやすいし、流れやすい。
例え方も、当然、過激になっていくから、タイトルやラベリングもしやすくなる。
ニュースサイトでもSNSでも、興味がわくキャッチィな言葉ほどクリックされる。
アクセス数の数は、そのまま評価基準なのだから、自然と、ニュースサイトも否定的意見が増えていく。
何かを褒めたり、肯定する記事も面白いんだけれど、数字の面で不利になっていく。

これまで文春がネタを提供して、タレントを一斉攻撃していたユーザーが。
ミュージシャンの引退会見を契機に、文春そのものを一斉攻撃した時にも感じた。
つまりは、攻撃対象さえあればいいのかもしれない。
そこに過激な表現、エキセントリックな要素を付け加えられるのであれば。
SNSだって、例えばこのBLOGだって、自分の意見として書いているつもりでも。
実は、全体の中で、相対化されながら、どうやって読んでもらうか考えて書いているはずで。
だとすれば、そういう空気や流れは、全体に大きな影響を与えている。
とにかくフォロワーの数、いいねの数、アクセス数、数字が生み出す共同幻想だ。

物語が持つ力は、肯定の力だ。
例えば、レオンという作品の主人公は殺し屋だ。
報道に乗れば、この主人公を肯定する記事など、雀の涙ほどしか出ないはずだ。
けれど、この映画を観ると、自然と彼を肯定している自分に気付く。
人を殺し続けているのに、小さな観葉植物に小さな愛情を傾けていることだとか。
少女を心配したり、少女に愛情を持ち始めていくこと。
殺し屋の本質を考えれば、肯定できる要素などほとんどないはずなのに。
物語を通してしまうと、不思議と感情移入をしてしまうようになる。
織田信長だって、実際には残虐非道な作戦を実施したリアリストだ。
けれど、ドラマや映画を通して観れば、一人の青年として、感情移入してしまう。

演じる役者も、肯定の力を使って、演じている。
自分が何者かになる時に、その登場人物を否定したまま演じることはとても難しいことだ。
例え純粋な悪だとしても、それを理解できないか、彼の自然を見つけられないか、考える。
圧倒的に肯定するところからしか、演じ始めることが出来ない。
いや、出来なくはないけれど、少なくても、その方がより深く演じることが出来る。
そもそも、その書かれた登場人物を作家は、肯定している。
どんなに悪役として書いていても、心のどこかで肯定しているはずだ。

物語が肯定の力で出来ていて、それを創る人たちが肯定の力で創っていて。
実は更に、もう一つ、大きな大きな肯定の力が働いている。
それは、作品を支えてくださるお客様の肯定の力だ。
たった一人の拍手の音が、たった一人の面白かったという一言が、たった一人のツイートが。
実は、作品を強く強く支えてくれている。
ましてや、セブンガールズは、クラウドファンディングという多くの人の力で実現された企画で。
制作前から、たくさんの肯定の力が、この作品には向けられている。
娼婦を描いた作品だけれど、そこには肯定が溢れている。

否定的な意見が次から次へと新しい記事を生んで、増殖するような時代だけれど。
きっと、物語は、そういう時代だからこそ、とっても大事なものなのだと思う。
そのスピードや広がり方には勝てない部分はあるけれど。
使い捨ての、インスタントな否定的意見とは違って、肯定は心に残っていく。
なぜならば、どんな意見も、いずれ自分に跳ね返ってくるからだ。
否定が跳ね返ってくれば、苦しいばかりだ。
肯定は、いずれ、自分に返ってきた時に、大きな力になる。

きっと、この作品の肯定の力も。
否定の力に比べれば、圧倒的にスピードが遅いものなのだろう。
それでも、じわじわと、侵食していくかのように。
世界を肯定してほしいと、願っている。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 16:27| Comment(0) | プロモーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする