2017年09月20日

まぼろし

葬儀。
冠婚葬祭でもないと集まらないような一同。
風習と因習と、祈り。
思い出。海風。

いつかの夏休みと。
いつかのお正月と。
いつかの笑顔が、次から次。

家族は増える。
家族は減る。
その繰り返し。

皆、傷つきながら生きている。
純粋過ぎた頃の記憶は、だから、まぶしすぎる。
傷は癒えるわけではなくて、慣れることで抱えながら生きている。
慣れるまでは、出来なかった話も、今ならできる。

とんびが飛んでいた。
ピーヒョローと鳴いていた。
とんびがとまってた。
空高いときは美しいのに、近くで観れば、大きさばかりが目立つ。
あれほど、大きかったか。
あれほど、威風堂々としていたか。
ピーヒョロロー。

線香の煙。
献花の色。
念仏の音。
献杯の味。
陽射の傷。
五感に残る、いつかの夢。

まぼろし。

おいらも歩く。
彼岸まで。涅槃まで。

あなたのように。
あなたたちのように。

とんびが、輪を書いた。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 02:22| Comment(0) | プロモーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月19日

心のありか

恋をすると胸が高鳴る。
だから、昔の人は、心がある場所は、胸だと思っていた。
近年になって西洋医学が発展すると。
そうではなく、恋をすると脳内でホルモンが分泌されることがわかった。
心のありかは、どうやら、脳の中にあるなんて思われるようになった。
ところが、最近の医学では、心はどうやら脳内だけじゃないかもしれないと言われ始めている。
胃は直接感情に作用すると言われ、腸には記憶をする能力があると発見される。
ホルモン分泌は脳内だけではない、と、次々に報告が上がっている。
心はどこにあるの?と聞かれたら、今は全身と答えるしかないんじゃないだろうか?
もちろん、その多くの機能は脳が担っているのだろうけれど。

どうしても、分析するときに、人は区別をしてしまう。
先週と今週、昨日と今日。生と死。
けれども、実際には、全ては連続していて、境界など曖昧でしかない。
曖昧だからこそ、人がここを区切りと定義しているだけに過ぎない。
脳も、頭蓋骨内にある脳神経の塊を指しているけれど、実際には連続している。
脳は延髄から太い神経網が繋がって、指先の神経まで繋がっている。
実際には、目だって、指先だって、脳と繋がっていて、一部だと言ってもいい。
そう考えてしまえば、神経網が全身にある以上、心のありかはやはり全身なのだと思う。
心と体を分別して考えてしまいがちなのだけれど、心と体は切り離せるものではない。

人の死も、実は連続していて、どこを境界としているかなんて実際には曖昧だ。
脳機能を始めとした神経網が絶え、内臓器官が徐々に機能を停止していく。
肉が腐り、皮膚が落ちていく。
それでも、まだ皮膚は呼吸を続けて、毛髪は伸び続ける。爪だって伸びる。
死は連続した現象であって、もっと言えば、腐乱した有機物を植物や昆虫が摂取することで更に繋がっていく。
それでは、社会が成立しないから境界を創る。
脳神経が停止した状態を脳死として、死と認定したり。
心臓が止まり、瞳孔が開いた状態を、死と認定する。
なぜ、その時点なの?と聞けば、そこに自我がなくなった時と言う判断だ。
つまり、現代の死は、心がなくなった時ということだ。
人は、人を、心で判断している。
肉体は器に過ぎず、自我こそ、その人そのものだと社会派認識している。
よくよく考えれば、まるで論理的じゃないなぁと思う。

科学全盛の世の中にあって、心を基準にしているなんて不思議なことだなぁと思う。
思ったよりも、人は、心を軸に、世界を構築している。
ロジックで全てを割り切れるわけがないのだ。

心と体を別にすることが出来ない証拠は山のようにある。
緊張による震えだって、例えば怒髪天を衝くなんて言葉一つでも。
肉体と心が常に、繋がっている証拠だ。
芝居を突き詰めていけば、肉体反応まで行きつく。
いつでも泣けますよと言う演技は、ただの涙腺反応のコントロールに過ぎないけれど。
泣くつもりもなかったのに自然と涙が流れるという状態になるのは、肉体反応だ。
怒りで血管が浮き出るようなことも芝居では起こりうるし、震えが止まらなくなることだってある。
そういうテイにしているのではなく、実際に自分の肉体がコントロール不能になることもある。
そういう時ほど、心と肉体を分けることは不可能だなぁと感じる。

心なんて目に見えない。
見えるのは心の動きで起きる肉体現象。
そしてその心を扱うのが演技。つまり肉体を扱うのと同義。
そして、それを作品にしていくのが演劇であり、映画でありということだ。
だから、芝居は世界最古の職業の一つであり、これからもなくなることはない。
目に見えないものを、目に見えるようにしているのだから。

きっと、芝居をすること。芝居を観ること。
それは、心について考えることと同じことだと思う。
心のありかはどこなのだろう?
心って何なのだろう?
自我ってなんだろう?
自分って、結局、なんなんだろう?
そういうすべてのものが、繋がっていく。

心の健康は大事だよ。役者をやるのであれば。
心の底から笑える人じゃなきゃ、芝居は歪んでいく。

先週今週と、どんどんテレビドラマが改変期で最終回を迎えている。
様々な心の形が描かれている。
それは、同時に、自分の心を観ているような気分になってくる。
セブンガールズを公開する日、きっと、同じようなことが起きるのだなぁと、考えたりする。

こんな心の形。
それを見て、どんな自分の心を観てくださるのだろう?
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 03:46| Comment(0) | プロモーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月18日

不真面目を許容する真面目

織田さんと待ち合わせて、ちょっとだけお手伝いに。
終わって、稽古に合流するとまだ始まっていなかった。
今日のテキストは、今や、メジャー劇団と言われる劇団の作品。
そこから2シーン抜き出していた。
1つ目は、ナンセンスな感じ。
2つ目は、なんというか、少しアンニュイな感じ。
どちらも、どう空気を積み上げるかだった。

恐らく正解は何通りもあるのだけれど。
どうやってもいいわけではなかった。
観ていて、ああ、観ていられるなぁというケースとそうじゃないケースがあった。
意味が分からないままやるとしても、そこに存在しないとやはり成立しない。
人間が二人いれば、その関係性が出来上がっていないと、成立しない。
どんな存在でも、どんな関係性でも、それは自由だけれど、ぶれるとわからなくなる。

演じては休憩を取る。
雨の日。
台風の足音。
空を観れば、雲の足が速い。

飲み屋に行く。
相変わらず、芝居の話。
あれはこうなんじゃないか。
あそこがつまらなかったのは、こうだったんじゃないか。

今の地味な稽古を始めてから、初めてその稽古に参加した後輩が同席していた。
こんな地味なことやっていて、馬鹿みたいだなぁって思うだろう?って聞くと。
冗談ぽく、思いますと笑った。
それでよい。
土台、バカみたいなのだ。

真面目は良いことではない。
真面目であることと、不真面目であることは、良い悪いで判断するものではない。
真面目であるがゆえに悪いことだってあるのだ。
不真面目であるがゆえに良いことだってある。
真面目に取り組んだから、それが良いかどうかは、結局、その後にならないとわからない。
その辺が難しいことなのだと思う。
そのぐらいの、大きな目は必要だ。

そろそろオリジナルの台本もやりたいとお願いしてみる。
5分程度の短いので良いから。
今の自分たちのテーマになりうる稽古用台本。
もちろん、無理でも大丈夫なように別の台本も用意しておく。
もし書けたら、それをやるということ。

何故成立しないケースが生まれるのか。
ひょっとしたら、それは真面目側の発想では、答えが出ない可能性もある。
それでも、結局、なぜだろう?と考えること自体が真面目だったりもする。
どっちもどっちもだ。
不真面目の良さを真面目に考えたりするのだからたちが悪いってもんだ。

おいらたちの劇団は、座付作家がいて、作家本人が演出家だ。
だから、作家の意図を直接確認することが出来る。
これは、どういう意図でこう書いたんですか?って確認できるのだ。
でも、それは、実はとっても貴重なことでもある。
原作があって、作家がいて、演出が別なんてことは、普通にあり得ることだ。
だから、作家の意図を直接聞けないことだってある。
今、別の台本を演じながら意図をくみ取り、解釈をしていくというのは、そこを鍛えられる。
もちろん、普段から意識してはいる。
安易に聞くのではなくて、ちゃんと自分で解釈して、芝居で提案しようと話している。
それでも、そこには、答えが用意されている。
今は、作家本人がいないから、答えは用意されていない。
それでも、やっぱり、はっきりと、結果は出る。
答えはわからないのに、成立していなかったり、つまらなかったりという結果は出る。
だからこそ、様々なケースで試しておくことはきっと意味がある。
人生にとっての意味なんかないけれど。

帰宅すると、突風の音。
暴風域も近そうだ。
明日も、芝居に触れる。
まぁ、触れるだけでも良いのだ。
自分の芝居脳が、少しでも回転し続ければそれでよい。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 02:49| Comment(0) | プロモーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする