2018年02月15日

特別ではなくなった日

女性が男性に告白する。

その言葉が意味を持った時代はもうはるか昔だ。
今となっては、そんな言葉は、別に何の意味も持たない。
男の3歩後ろを歩いて・・・なんて時代ではとっくにない。
今や、ただ、「告白する」という言葉と大きな違いはない。
告白なんて、男女問わず、誰にとってもイベントだ。
「女性が」が特別な意味を持たなくなっているとは言え。

実は、ヴァレンタインデーに告白する人が減っているという記事があった。
なんて当たり前のことを書くのだろうと思った。
今の時代、女から告白したところで、それは普通のことなのだから。
ヴァレンタインまでに彼氏を作っておくなんていう不思議なことだって起きてるはずだ。
お菓子屋の陰謀だなんて、毎年思う部分もあるけれど。
まぁ、そんなに悪い日でもないのかなとも思う。
いずれ、意味は変容していく。
社会が変化すれば、やはり、全ての意味が相対的に変わらざるを得ない。
例えば、明治時代にヴァレンタインがあっても流行らなかったんじゃないだろうか?
そんな破廉恥なことをしても男性に嫌われる!と言って。

女性が積極的になったとか。肉食だとか。
男性が消極的になったとか、草食だとか。
正直言うと、ダサい話だなぁと思う。
女性が、男性が、と限定して話している時点で、すでに時代的にはずれている。
積極的な奴も、消極的な奴も、性別関係なくいる。
本来、そういうバランスがあるのだから、それまでがおかしかったと考えた方がいい。

そういうことって、実は世の中に溢れまくっている。
そもそも、不自然なこと、不公平なこと。
それが、時代が進んで、不自然でなくなり、不公平でなくなっただけなのに。
余計に変わった!と強調したり、昔は良かった!と宣伝したりする。
なんというか、そういう感覚を自分すら持ちそうになることがあって、厭になる。
時代は良い方向にしか向かっていないのだから。
江戸時代のすばらしさなんか、いくら宣伝しても、意味がない。
厳格な身分制度の中で暮らしていた前提を忘れているからだ。
文字を読めない人だってたくさんいたという前提を忘れているからだ。

自分の少年の頃を思えば、確かに美しかったような思い出が山のように残っている。
でも、今、ちゃんと冷静に考えれば、日本は近代化の過渡期にあったんじゃないかって思える。
今よりもずっとテレビは自由だった!とかよく耳にするけれど。
逆を言えば、いまよりもずっとテレビは、異常な場所だったともいえる。
不自由になったのは、それまでに自由にやっていたことで、やりすぎな部分があったからだ。
今のテレビが詰まらないんじゃなくて、今はテレビよりも面白いことがたくさんあるだけだ。
配信動画が、ここまで普及すれば、むしろテレビはリファレンスなのだから。
当然、変化が必要になる。
時代が・・・ではなくて、当たり前に進化しているだけだと思う。

なんと。
からっぽの言葉だろう?
「女性が男性に告白する。」
その為の日があったなんて。

かわいい勝負。
女の子勝負。
ファッションの一つ。
イベントとして。
ヴァレンタインはその程度の日になった。

男女平等なら、男性が女性に告白する日も必要だって?
考えてみれば、ホワイトデーは、無理にバランスを取ろうとした日なのかもしれない。
でも、そんな日ならいらない。
余計なお世話。
せずにはいられなければ、そんな日がなくてもするさ。
しないでおこうと思えば、一生胸の中にしまっておけるさ。
余計なんだよな。

そんなこと言いつつも。
おいらは男なんだから・・・。
と、いつも考えてしまう自分がいる。
男らしさってのも、とっくに時代に変化させられているのだけれど。
まぁ、今の時代における男らしさとは?って思えばいいか。

頭が痛くなってくる。
チョコレートをパクリ。
糖分を脳内に送るのさ。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 04:13| Comment(0) | プロモーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月14日

頭の中の芝居

演劇でも映画でも、大抵の作品は120分前後だ。
そう思うと、小説というのはすごい表現だなぁと思う。
それ以上の時間、興味を持たせ続けるというのは、並大抵のことじゃない。
ましてや、文字だけで、その興味を引き続ける。

本の虫になった経験がある役者や俳優は多い。
あまり読まないよという人もいるけれど。
作品世界に没頭するという意味では、かなり強力な表現だ。
自分は、ピカレスクモノから、新本格、純文学、詩文、評論、エッセー、ミステリー。歴史小説。
なんだかわからないけれど、次から次へと読み漁った時期がある。
ハードボイルドにはまった時期もあるし、何巻にもわたるような長編が好きになった時期もある。
最近の作家や出版された本からはちょっと遠ざかっているけれど。
今、話題の作家たちが、同世代で、やっぱり同じような作品を読んできたんだなぁって感じたりする。

役者は誰かが書いた作品をどうやって演じるかと考える。
つまり、ゼロから何かを創るわけではなくて、イチからの作業だ。
その点作家は、真っ白な原稿用紙からスタートするから、すごい!と口にする人がいる。
でも、最近、実はそうでもないんだなぁと気付き始めた。
作家さんがテレビで話している言葉を聞く限り、ゼロから何かを書くなんてことは殆どない。
むしろ、自分で先にタイトルを決めたりテーマを決めたり。
なんにもない所から書くんじゃなくて、何かを準備してから書くのだと知ったからだ。
創造の入口を、ちゃんと創っている。

入口を創ることが、もう、ゼロからじゃないかって思っていたのだけれど。
意外に、まずはテキトーにワードを並べちゃいますなんて作家も多いのだ。
へえ、そういうものなんだなぁって、ちょっと驚いた。
真っ白な原稿用紙に向かって、何もなく文字が下りてくるなんてことは早々ないのだ。
場合によっては、何かに影響されて、これを書いてみようという事も多いという。
映画を観たり、スポーツを観たり、そういう所から始まるらしい。
それは、もうゼロからというよりも、着想をどこかからもらっているということだ。
私小説にしたって、自分の人生というイチが用意されている。

本を読んでいる時。
それはある意味で、本を書いている人の頭の中を追体験するようなことなのだと思う。
自分は全ての登場人物を頭の中で演じているような気がする。
感情移入といえばいいのか、その登場人物のセリフを、自分なりに解釈しながら読み進める。
きっと、作家も、その登場人物のキャラクターに合わせて、演じながら書いている。
そう考えると、演技なき芝居が小説なのかもしれない。
そう思えば、役者が本の虫になる時期があるのは当たり前なのかもしれない。
様々な人生を追体験し、作家の頭の中を追体験し、登場人物を頭の中で演じるのだから。

今も時々、活字に飢えて、本屋に行ってしまう。
これって思う本があれば読みたくなる。
その出会いを求めている。
中々、のめりこめそうにないときは、漫画コーナーに行く。
漫画はビジュアルがあるけれど、同じように、やっぱり、作品世界に没入できるから。
小説よりも時間がかからない事と、絵を想像する作業が必要ない分、少しだけ気軽に手に取れる。

監督には、いつか小説を書いてくれといつもお願いしている。
監督の書く小説を読みたいからだ。
漫画原作はあったけれど、小説はまだない。
短編でもいい。エンターテイメント作品でもいい。
そこに、役者を介さない、純度100%の監督の表現を観たい。
いつか、書いてくれるかな。
そんなに、簡単にはいかないよと言われてしまいそうだけれど。

西尾維新さんのシリーズで追っている小説があって。
それを口にしたら、劇団員の一人に、ええ?って言われたことがある。
あまりに、おいらとイメージが合わないんだろうなぁ。
でも、その世界の構築の仕方の新しさに、いつも驚かされる。
こういう人が突然現れるから面白い。
そろそろ文学賞をあげてもいいんじゃないか?ってわりと真剣に思っているのだけれど。
ふざけているって思われちゃうのかなぁ。

前ほど、本の虫ではないけれど。
特に、芝居をする直前の時期になるとどうしても本を読めなくなるのだけれど。
今でも、手持ち無沙汰になると、本を買っておけばよかったと後悔してしまう。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 03:42| Comment(0) | プロモーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月13日

タイトル

春の公演の全体のタイトルが決まる。
これまでは仮タイトルだったから、タイトルを考えましょうと提案してあった。
3本の中編を3班に分かれて上演するから、それぞれの作家に確認した。
今まで、あまりそういうことがなかったから、とても新鮮。
もちろん、それぞれの作品のタイトルもあるわけだけれど、全体タイトルも作品と関係性が出てくる。
へたすれば、タイトルがテーマになってしまうケースだってあるのだから、確認が必要だ。
元々、このテーマでそれぞれ作品を創ろうというのがなかったので、自由に創られている。
それでも、どこかに共通点があるはずだと思っていたけれど、うまく、共通点が見つかった。

タイトルというのは、とても重要だ。
看板そのものなのだから。
商品名と言ってもいいものだから。
とにかく、内容が一発でわかるようなタイトルも良いし。
なんとなく、愛着がわくようなタイトルもまた素晴らしい。
逆に意味は解らないけれど、作品を観終わってから、納得してしまうタイトルだってある。
隠れているテーマを暗示しているようなタイトルもある。
中には本能に訴えるようなタイトル・・・エロティシズムを埋めておくようなケースも。

自分の好みは、作品を観ていて、タイトルを忘れた頃に、もう一度思い出させてくれるような作品。
作品世界に没入していくうちに、作品の中で流れている物語に集中してしまう。
そんな時、ふいに、タイトルを思い出してしまうような、一節が出てくると、ぞぞぞとする。
もちろん、オシャレなタイトルも好きだし、文章のようなタイトルも好き。
逆にあまり好きじゃないのは、一目で内容がわかるようなタイトルというのは、苦手だったりする。
それは、別にあらすじとか、キャッチコピーとか、他の情報で出してくれたらいいのにって思ってしまう。

後から、ちょっと、何でこのタイトルにしたかわからないなぁっていうのも、あるにはある。
そういうのは、なんか、騙されたような気がして厭になったりもする。
海外の映画の邦題なんかは、面白いもの、素晴らしいもの、たくさんあるんだけれど。
全然続編じゃないのに、まるで人気映画の続編のようなタイトルを付けていたりする。
ああいうのは、とっても好きじゃない。
アルマゲドンとか、ジョーズとか、安易だなぁと思う。
あれは、要するに作家や監督じゃなくて、配給側が付けているからなのだろうけれど。
今は、あまり、そういうことも少なくなっている。

重要なセリフをタイトルにしている場合があって。
実は、それも、とっても好き。
そのセリフに辿り着くまでにどうやって物語が進んでいるのか。
タイトルをお客様が忘れるぐらいまで、物語を動かせるのか。
そして、どれだけ不意打ちで、想像外の場面で、タイトルを口にするのか。
すごく計算されていて、同時に、物語に没入していた自分に気付くような瞬間になって。
監督の作品の中で、笑いのシーンで突発的にタイトルを口にして。
「おい!どさくさに紛れて、一番大事なセリフ言ってんじゃねぇ!」ってツッコミがあったことがあって。
ああ、この人の頭の中の構造は、なんというか、やっぱり普通には辿り着けないなぁと、笑ったことがある。
笑ったというのは別に馬鹿にしているわけではなくて、純粋に尊敬しすぎて笑っちゃうのだ。
こんなことを思いつくなんてどうかしているとも思うし。
仮に思いついたとしても、そのシーンを実際に書くというのも、どうかしている。
まるで、いたずらっ子だ。

監督の昔の作品で「また冬が来て」というタイトルの作品があって。
そのタイトルは、自分のセリフに出てきたことがあって。
それは、台本を読んだ時から痺れたのだけれど。
このタイトルからお客様や、役者たちが想像していたイメージがあるのだけれど。
そうじゃなくて、このセリフの後に続く言葉こそ、大事だったことがある。
それなんかは、とっても、計算されていて、作品の背景になっている歴史まで知っているともっと感動するようになっていた。
あれはやっぱり、台本を書き始めた頃から、ほとんどラストのこのセリフが決まっていたんだなぁと思う。
どこかで出そう・・・と思ってたという場合もあるけれど。
あの作品を思い出すと、そうとしか思えない。

セブンガールズというタイトルも、キャッチーでありながら、仕掛けがある。
なんせ、物語が始まる時、娼婦が8人もいるのだから。
セブンガールズも、台本を書き始めた当初からタイトルが決まってた。
つまり、物語の流れや構造は、すでに決まっている所から書き始めていたはずだ。

タイトルは、それ自体はただの看板だし、商品名でしかない。
作品を体感した後、タイトルは特別な意味を持つ。
その瞬間、その作品は忘れられないものに変わるのだと思う。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 03:57| Comment(0) | プロモーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする