2017年05月26日

1946

2017年の70th。カンヌ映画祭が幕を閉じようとしている。
発表当日まで、なんかの形でカンヌに行けるんじゃないかと漠然と予感していて。
まぁ、その辺が楽観的というか困った性格なのだけど、わりと本気でだめかぁと落ち込んだわけだけれど。
なんだか、そんな経緯もあったから、ああ、終わるんだなぁとひとしお。
日々のリポートや、オフィシャルSNSの発信なども確認していた。
今は、きっと、どの作品がパルムドールをとるのか話題が集中している頃だろうなぁ。

実は、色々な符号を見つけて、これは偶然かなぁなんて思っていた部分もある。

カンヌ映画祭は1946年に始まった。
あれ?そうなると、71回目じゃないの?と思うかもしれないけれど・・・。
開催されなかった年もあるから、今年が70回目なのだそうだ。
切りの良い70回目。アニバーサリーな映画祭になっている。
本年度は、新人監督映画がコンペティション部門に1本もなく、そこは批判されているそうだ。
いわゆる常連のベテラン監督の作品が並ぶ。
もちろん、内容については、クオリティが高いという事だろう。

1946年に始まったということが、意味していることをやはり、考えてしまう。
第二次世界大戦が終戦になったのが1945年。
その翌年から、映画祭が始まっているのだという事だ。
世界三大映画祭と言えば、ベルリン、カンヌ、ヴェネチア。
つまり、ドイツ、フランス、イタリアなわけで、戦勝国唯一の映画祭がカンヌになる。
一番歴史が古いのがヴェネチア国際映画祭で、1930年代から始まっているけれど。
ムッソリーニ政権のファシズム思想が入っていると言われている時期があって、それに対抗して作られたのがカンヌと言われている。
ドイツは1951年からで、1940年代に映画祭が開かれることはなかった。
ちなみに、日本映画が、国外で評価されるようになるのも1950年代。
黒澤明監督作品「羅生門」も、1951年の受賞で、敗戦国の映画産業が花開いたのは1950年代からなのだなぁと思う。
ヴェネチアも、敗戦国だけに1950年代に入って、花開いたという。
映画産業が、戦後復興し始めるのに最低5年はかかったということになる。

戦争と映画は根が深いのだ。
戦意高揚のために映画が利用された時代もあった。

フランスという国にとって映画産業は平和と自由の象徴ともいえる産業なのだ。
だからこそ、国費を投入して、世界的な映画祭を開催するし、映画産業に寛大だ。
今年の映画祭におけるNetflix問題だって、その辺と密接に関係している。

SEVEN GIRLSは、1946年を舞台にした作品だ。
カンヌ映画祭が始まった年を舞台にしていると知った時に、なんだか、胸がざわついた。
実は、前にどこの映画祭に出したいよねと話していた時に言った話なのだけれど。
この映画は、敗戦国の映画だから、カンヌよりもベルリンの人に見せたいなぁなんておいらは言っていたんだ。
実際に、日本映画が世界の舞台に行くきっかけは、ヴェネチアやベルリンが多い。
そこに、おいらは、なんというか、古き三国同盟を感じるとかではなくて。
敗戦国独特の国民感情のようなものをどこか、感じてしまう。
70年も経過しているから関係ないよ。なんて言葉も聞いていたけれど。
考えようによっては70年しか経過していないのだから。
生の証言も、映像も、生きている人もいて、それを知らない世代も増えてきた現代。
戦争という価値観から脱却して、経済、文化で発展してきた。
ドイツ人と日本人は似ているなんて言われるのも、なんとなく、わかるような気がしてるのだ。
自由の象徴こそ映画であるというのがカンヌだとすれば、文化発展を高らかに歌い上げたのが、ベルリン、ヴェネチアではないだろうか。
一見、同じようなテーマに見えるけれど、角度が正反対だという風に思える。

・・・ちなみに、世界四大映画祭というと、モスクワかロカルノのどちらかが加わるのだけれど。
ロカルノ国際映画祭も1946年から開催されていて、今年がちょうど70回目のアニバーサリーだ。
それを知った時も、はっとした。
ロカルノという土地は、あのロカルノ条約の土地で、この条約を破棄してナチスは第二次世界大戦を始めた。
考えてみれば、ロカルノも、とっても戦争と根強く繋がった映画祭なのだなぁと思う。
ロカルノでも1946年からというのはとっても象徴的だ。

そんなこと考えている人なんかあまりいないのかもしれないけれど。
なんというか、1946年という年は、とっても象徴的だ。
やはり、世界の転換点だったのだなぁとつくづく思う。
戦後の歴史は、そのまま映画の歴史になっている。
映画祭をやろうとした人たちの物語を書けば、きっと、どこかSEVEN GIRLSに繋がるんじゃないかなぁ。

これは、大事なことだ。
なぜなら、映画祭を始めた人たちのスピリットというのが、脈々と受け継がれているはずだから。
関係ないよと一言で片づけるようなことはせずに、おいらは、そういうものを大事に感じたいなぁと思う。

できることなら。
100回目も。200回目も、開催され続けるような世界を願いながら。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 05:20| Comment(0) | プロモーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月25日

ワールドプレミア上映

カンヌ国際映画祭のコンペティション部門で河瀬監督の「光」のスタンディングの模様が報道された。
立てないほど泣いている主演の永瀬正敏さんを観て、おいらも感動してしまった。
役者にとって、お客様の拍手以上の栄養はないと、つくづく思う。
特に映像の現場の俳優は、舞台と違って直接お客様と触れる機会が少ないから、感動は大きいと思う。

演じる期間というのは、色々な段階があって。
どんな風に演じようとか、どんな風にセリフを言おうとか、そんな時期はまだまだ序の口で。
そこから先は、自己肯定と自己否定の繰り返しに入っていく。
自分のやっていることが正しいのか間違っているのかも曖昧になって行って。
ただただ、自分のダメな部分ばかり目が行ってしまう時期もある。
それは、それぞれの役者の心の内側で起きていることで、目に見えるものではないけれど。
そういう中でしか、最終的に芝居は出てこない。
お客様の拍手というのは、そんな自己否定を他者肯定に一気に変換する魔法のような瞬間だ。
駄目だ駄目だ、もっとだもっとだ、が他者に受け入れられた瞬間。
それは、心の問題が一人の問題ではなく、共有できる何かであると体で理解する瞬間でもある。
あの拍手がなければ、役者なんて、続けるのは苦行でしかないのかもしれない。
遠く離れた異国の映画館で、一緒に映画を観て、10分にも及ぶスタンディングを浴びたらどんな気分だろうか?
感謝だとかでは表せないような、全てが一つに繋がっていくような、なんとも言えないその瞬間を感じるというのは。

感動を共有してしまった理由は、きっと、今、苦しいからだ。
苦しいなぁと感じているからだ。
舞台で自分の演じる役について考えても、今、映画のプロジェクトを進めている段階においても。
なんというか、果たして本当に前に進んでいるのか、実感の湧かない時期だからだ。
その上、おいらの場合、その苦しみのようなものから離れようとしない。
苦しみは苦しみとして、常に自分のそばに置いておかないと、本当の場所には行けないと思っているからだ。
自分の芝居に自信がないときに、あえて人のダメ出しを聞きたがったりしてしまう。
役者はマゾだなんだ言う人がいるけれど、たぶん、マゾだとかそんな言葉で表現できるものではない。
駄目だと言われて気持ちいいわけではなくて、その先にある自己肯定を探り当てるための道程なだけだ。
あの拍手があるからこそ、自分はその苦しみをあえて、そばに置くのだと思う。

舞台は常にお客様がそこにいて、拍手を頂ける。
役者にとっては、最高の環境だと思う。
映画の場合は、自分のいないどこかで上映されたりしているのだから、とっても不思議だ。
しかも、それが海の向こうだったり、誰かの家のリビングであったりするのだから。

国際映画祭には、プレミア規定というのがある。
映画祭に申請する際に、いくつかの条件があって、その中にプレミア規定というのが設定されている。
ワールドプレミア、インターワールドプレミア、アジアプレミア、ジャパンプレミアなどなど。
時々、日本でワールドプレミア!なんて話題になる映画もあるから耳にすることもあると思う。
いわゆる、ワールドプレミアは、世界での初の公開という事だ。
インターワールドになってくると、自国以外の世界で初の映画祭公開、アジア、ジャパンはアジアで日本でという事。
多くの主要な国際映画祭のプレミア規定はワールドプレミアに設定されていたりする。
だから、他の映画祭にノミネートされれば、もうそれ以外の国際映画祭には出しにくくなっていく。

カンヌ国際映画祭が過ぎると、夏から秋にかけて、世界中で多くの映画祭が開かれる。
だからカンヌで同時開催されている世界最大のマーケット、マルシェ・ドゥ・フィルムはとても重要なマーケットだ。
モスクワも、ヴェネチアも、ロカルノも、トロントも、映画祭でワールドプレミア上映できる作品を探している。
多くの映画祭のプログラマーやディレクターが足を運ぶ時期としても、完璧な時期なのだ。
応募作品があっても、ノミネート前に他の映画祭に選ばれてしまうケースもあるそうだ。
世界的に有名な大きな映画祭などは、6月前半に応募を締め切るスケジュールのケースが非常に多い。
カンヌと違って、内定すると連絡が来るようだ。
それは、他の映画祭とダブルブッキングになったり、プレミア上映ではなくなってしまわないようにするためだろう。
もっとも、カンヌのように本当に発表するまで連絡が来ないと、逆にスケジュールが大変だと思うけれど。

「SEVEN GIRLS」はワールドプレミア上映が出来るだろうか?
もちろん、どこの映画祭に参加しなかったとしても、封切の日がプレミア上映になるわけだけれど。
ただ、やっぱりワールドプレミアとは、国際映画祭の舞台での上映なのだという感覚がある。
映画を愛する人が集まる祭典での上映。
それがもし決まったら、おいらはどんな気分になるだろう?
なまじ、舞台での拍手を知っているから、永瀬さんの姿を見て想像してしまった。
(それも、舞台上ではなくて、同じ観客席で拍手を浴びるのだから)
その会場に行ける俳優は、パンパンを演じた女優ばかりになるだろうし、自分が行けるとも思っていないけれど。
それでも、ワールドプレミアで、拍手を浴びるという状況は想像してしまったりするのだ。

だからきっと、今が、一番大事な時期なのだ。
世界の舞台で作品のセールスをしている今が。
永瀬さんが涙を流したその同じ建物の別の階に「SEVEN GIRLS」が、ある。
おいらは、ただただ、吉報を待つしかできないのかな?
何もできずに、ただ待つしかできないなんて、なんて苦しいのだろう。
今から7月ぐらいまでは、こんな風に、何か良い連絡がないか待たなくてはいけない。
それも、何も連絡がない可能性だってある中でだ。

「シモキタから世界へ」なんて、目標にしているけれど。
本当に、今、世界に行っていて、ワールドプレミアなんて考えていること自体がすでに奇跡なのだけれど。
この奇跡は、まだまだ続くのだと、おいらは思っている。
想像すらできないような明日がやってくると、信じている。

だって、SEVEN GIRLSの登場人物たちは、誰一人、明日を疑っていないじゃないか。
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posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 05:26| Comment(0) | プロモーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月24日

群像劇

空いた時間を使って、少しずつWEBを構築している。
一番大変なのは、写真選びだ。
スチールは膨大な数があるけれど、実際に選ぶとなると非常に困難だったりする。
特に、キャスト紹介の写真にとても苦労している。

そもそも役者の正面は、撮影カメラやスタッフさんが動いているのだから正面の写真は数えるほどだ。
だから、何人かが映っている写真を切り抜くことになるんだけれど、ピントが他の人にあっていたらもうだめだ。
基本的に綺麗な顔とかよりも、なるべく芝居をしている写真をどんどん選んでいるけれど・・・。
良いアングルの写真で目をつぶっていたりすると、とっても、ガッカリくる。

それにしても・・・

他の映画のHPを参考に作っていたのだけれど。
なんと、登場人物が多い作品だろう。
こんなに、たくさんのキャストが出演している映画って、そうそうない。
大作で、この人数が出演しているかどうかだ。

キャストを並べていくだけで、なんだか得体のしれないパワーを感じるのは数の力かもしれない。
今、このキャスト数で、群像劇を書ける作家って、そんなにいないんじゃないだろうか。
もちろん、シンプルに映画にするのが難しいというのもあるのだろうけれど。
群像として、それぞれの役にバックボーンがあって、エピソードがあるなんて作品は中々ない。

日本人から見れば、もちろん、すぐにわかるだろうけれど。
海外の人が観ると、日本人の顔も判別が難しいなんて聞いたことがある。
そうなると、この群像劇はとってもわかりづらいのだろうか。
こればっかりは、実際に観た人の意見を聞かないとちょっとわからないけれど。
ただ、恐らく、海外の作品でも、ここまでの群像劇は最近はないんじゃないだろうか。
だから、逆にそこを面白がってくれるといいなぁなんて思う。

だから、実は、この作品は、物語の持つ構造から、すでに売りなんだなぁと思う。
そして、恐らく、何回見ても発見のある作品になっているはずだ。
映画の動員もリピーターというのがとっても大事になっていると聞く。

このパワーが解放される日が、やってくるのかと思うとドキドキする。
公開が決まって、それを発表する日にはHPも公開することになるだろう。
それまで、少しずつ、ああでもないこうでもないといじり倒していく。

一言で語れるキャッチコピーが必要だけれど。
とても一言で語れるような作品ではないのだなぁと、改めて思った。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 03:42| Comment(0) | プロモーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする