2016年12月10日

実はクリエイティブな場所

先週向かったカフェに足を延ばそうとする。
電源さえあれば、どこだってそこはスタジオになる。
ところが、先週開拓したばかりのカフェが今日は貸し切り営業だった。
慌てて、ちょっと探しましょうと、監督と少し歩く。
音環境は悪いけれど、カラオケボックスもあるし、その前に行ったカフェにも電源がある。
電源のある席さえ空いていればそこに向かいながら探した方が良い。

ふととある駅前にたどりつき、周りを見回す。
有名コーヒーショップと、有名ファミリーレストランが目に入る。
まさか、電源を借りれるわけはないけれど・・・と、思いつつ、聞いてみることにする。
監督はコーヒーショップに。おいらはファミレスに。
そして、そのファミレスに、驚いたことに電源があった。
それも、殆どの席に電源が用意されていて、使用している人もいる。
店員さんに確認してみると、もちろん、使って構わないという。

とても驚いた。
この町の電源のある場所一覧にも掲載されていなかった。
恐らく、多くのノマドな人たちもまだ気づいていないのではないだろうか?
大手チェーン店だけど、もちろん、電源のない店の方が多いはずだ。
それも、喫煙席だった。

先週までは、お洒落なカフェだった。
時間的にも、ホットワインか何かを、普通に飲んでいる人がいるような場所だ。
もちろん、電源を貸しているだけあって、店員さんが悪い顔をするようなことはないけれど。
先週開拓した貸し切りだったカフェなんて、監督とおいら以外は女性客しかいなかった。
テーブルキャンドルがゆらゆらゆれて、五穀米やらのおしゃれなプレートを皆楽しんでいた。
電源を貸してくれるようなカフェはもうそういうところしかないだろうと思った。
いくつかの有名コーヒーショップにも電源はあるけれど、いつ行っても、そこは埋まっている。
スマホの充電でどのコンセントも埋まっているのが当然だと思っていた。
それが、まさかの、ファミレスだった。

皆様は知っているだろうか?
ファミレスで数々の文化が生まれていることを。
漫画家がネームを書き、小説家が小説を書き、作家が台本やシナリオを書いていることを。
芸人たちがネタ打ち合わせを、ファミレスでしていることを。
ファミリーユースのレストランだけれど、同時に、そういう場所でもあるのだ。
そして、ファミレス側もそれを知っていて、ちゃんと準備してくれている。
だから、電源まであるファミレスがあるのだろう。
考えてみれば、ドリンクバイキングだって、制限時間がないことだって。
当然だけど、どんなふうに利用されているのか全てリサーチされているということだ。

驚いたことに、おしゃれなカフェよりもずっと、集中して作業に取り組めた。
広いテーブル、灰皿、明るめの照明、ドリンク、そして誰も他人に興味を持たないあの感じ。
まったくの盲点だった・・・。
でもお店のどこにも、電源について書かれていない。
当然看板にすらない。
だから、積極的に、アピールしているわけではないのだろうなぁ・・・。

快適だったからなのか、編集も短い時間にしては大きく進んだ。
大きくと言っても、たかだか8分ぐらいだけれど・・・。
とは言え、1時間をついに超えたし、シーン数でいえば、十分すぎるほど進展した。
一瞬、どうするか悩む場面もあったけれど、アイデアもすぐに出てきた。

舞台ではなかったクダリがいくつか用意されている。
そのいくつかが、大きな意味を持ち始めている。
物語の連鎖の仕方も、スムーズになってきた。
もちろん、まだ物語は転がっていく。
起承転結の「承」なのだ。
テンポよく、そして、微妙に物語が混ざりながら連鎖していく。
この流れから、「転」に行けたら。

想定では、最初は物語についてこれないお客様もこのぐらいには既に物語の中に入っている状態のはず・・・。
そういう想定で、編集している。
その為の仕掛けも細かくしてあるのだから。

帰宅して、今日の整理をしようかと思ったけれど、今日はやめた。
明日は編集がないから、冷静になった明日の方が良いだろう。
まぁ、明日は優先順位的にその前にやることが山押しだけれど。

撮影もそうだけれど。
場所は大きな影響力を持つ。
編集場所がどこだったかで、やっぱり、結果が少しずつ変わってくるのだ。
そういうことを強く感じた。

確実にクライマックスに近づいて行っている。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 03:25| Comment(0) | 編集 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月12日

オリオン座を見上げて

稽古場に行く。
まだ稽古場を他で借りている人たちが残っていた。
監督とおいらの顔を見て、すみません!と言いながら慌てて出ていく。
いつもの稽古場に、知らない顔がいるだけで違和感が残る。

そのまま編集を開始する。
前回の編集で、ここをやると決めていた長めのシーン。
3つのアングルを、短い間隔で何度も何度も行き来する。
監督の指示はシンプルだけど、エディターの作業がとても多い。
そんな作業の日にマウスを忘れていて、ラップトップのタッチパッドでの操作を強いられる。
最近覚えたショートカットのいくつかを知らなかったら、指がつっていたかもしれない。

そのシーンに目途が立ったところで、メンバーが集まり稽古に移行する。
自分の役も出てきて、しばし役者になる。
役者が終わったと同時に、やけに顔が火照って、頭が痛くなる。
ちょっと出番まで休んでくると言い残して、横になった。
久々に割れるように頭が痛かった。

出番前に呼ばれて、自分の芝居の立ち位置を確認する。
そんなことをしているうちにタイムアップ。
稽古は終了となった。

頭が痛くなったこともあって、帰ろうかと一瞬思ったけれど。
ちょっとそれも無理だなぁと思った。
編集が始まってから、毎週日曜だけは飲みに行っている。
頭の中の大半が映画のことになっていて、そのガスを抜ける場所は数少ない。
編集でこんなことがあったという話も、どこにもいかないままとどまると、どうなることか。
煮詰まって良いものが出来るわけがないのだ。
こういう日だけでも、酒を入れる。

冬の星座の代表格。オリオン座を見上げながら帰宅する。
PCを立ち上げて、印刷物の作成を続行する。
ようやく、今さっきもう一つ入稿できた。
これで、事前に用意する印刷物は全て入稿できたはずだ。
ギリギリ、スケジュール的にも滑り込んだはずだ。
来週の稽古には、持っていける算段。

さて、どうするか?
今日編集した個所の整理は相当大変なのが分かっている。
細かく編集点をコマ単位で調整していかなくちゃいけない。
その編集点が、恐らくそこだけで、数十あるはずだ。
今日やった記憶が残っている今やるのが一番な気もするけれど・・・。
なあに、いったん、落ち着いてからのほうが良い場合も多い。

今日は、PCを閉じよう。
まずは、一仕事を終えたのだから。
編集しながらセリフ覚えられるかなぁ・・・。

寒い日だった。
オリオン座を見上げて。
真っ白い息がのぼった。
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posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 02:43| Comment(0) | 編集 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月13日

尺調整

役者が演じる時にたっぷりと間を取ったり、詰めたりする。
1カメラ、1カットであるなら、それはそのままその間を生かすことになるけれど。
カメラが2台であったり、2カット以上あって、動きに大きな矛盾がなければ、実は調整できる。
アングルを変えてしまえばバッサリと間を削ったり、逆にイメージショットを挟んで間を作ったりできるのだ。
尺調整ってやつで、監督はシャクチョーシャクチョーと言う。

これをやっていて思うのは、監督の頭の中で流れているリズム感だ。
役者は恐らく、主観的に間を作っている。
自分の中で気持ち良い間で芝居を作っている。
その自分が、役の自分なのか、役者本人なのかの問題はあるにせよ、そうなる。
ただ、監督や演出家は、完全に客観的なリズム感になる。
ここはこのリズムじゃないと有り得ない。そういう鉄板なリズムがある。
よく、間は役者の物だなんていうけれど、映像編集が加われば、それすら調整できるのだ。
だから、これをやるのは、とってもためになる。
なぜなら、監督が求めている、客観的なリズムが手に取るようにわかるからだ。

ノンリニア編集をやっていて、恐ろしいのは、音は全て波形に現れることだ。
全ての音が波形で表示されている。
だから、倍音の豊かな俳優の声の波形はとても濃いし、届きづらい声はやっぱり波形が薄い。
それは、小さな声や、こそこそ声、ハ行の無整音であっても変わらない。
発声の基礎が出来ているかいないかが、視覚的に見えてしまう。
その上、その俳優がどんな間で、どんなふうにしゃべっているかわかってくる。
長台詞を全て同じリズムで切れば、喋って休んでの波形が見事に、視覚的にリズムになってしまう。
通常の会話ではありえない不自然なリズムや節回しが、全て、波形になって出てしまう。
どうも、眠いセリフだなぁと感じれば、それは、単純なリズムでセリフを回していたからなんてことが起きる。

ここは、本当に勉強になるよ。
編集していれば、完全なる客観でセリフを、視覚で見ることが出来るのだから。
例えば、セリフの頭の子音が落ちがちな俳優は、そのまま波形になって表れる。
ああ、この子は、発生でここが苦手なんだなぁなんて、あっさり見えちゃうんだ。
編集していて、子音やアタックが弱いと、編集点を見つけづらい。
大抵、それは同じ俳優になってくる。
面白いのは、口を開けてから声が出る役者と、同時に声が出る役者がいたり。
セリフを言う前に、少しだけ、吐息が入る役者がいたりすること。
そういう小さな癖も、手に取るようにわかっていく。

ちなみに、色々な音声を出せる俳優は、どうやら倍音が豊かな発声を持っている俳優だけだ。
倍音が多いからこそ、低音部や高音部、或いは、音色を変えたり調整できるのだ。
そもそも、発声が弱い俳優は、倍音を持っていないから、幅がない。
言われてみれば、名優たちは、豊かな低音の倍音を持っているよなぁと気づく。
ナレーションで有名な俳優の音声は、とても豊かだ。

その波形を観ながら、この吐息は切るとか。
或いは、この長台詞のこことここの間を取っちゃって、一息のセリフにするとか。
或いは前の人のセリフの後の間をばっさり切って、少し次のセリフをかぶせちゃうとか。
コマ単位で細かく尺の調整をしていくのだ。

映像の継ぎはぎの段階では、実際の映像データに紐づいたガイド音声で編集しているけれど。
つまり、それは、当日に何台かのマイクをミキサーでミックスして、カメラに返している音声だ。
でも、映像継ぎはぎ後に貼り付けていく音声は、ミックス前のデータだから、全てのマイクデータを貼り付ける。
そうなれば、それぞれのセリフを、一つずつ拾っていけるから、もっと細かく尺調整できるだろう。
やろうと思えば、息継ぎなしのとんでもない長台詞だって、編集で作ることが出来るのだ。
一つのセリフの中で調整されてしまうこともある。
役者は、実際の完パケを見て気づくのだろうか?
殆ど、気づかないんじゃないかとさえ思えてくる。
そのぐらい自然につながっているからだ。

映像を観ていれば、セリフなんて芝居にとって、どれだけ大事なものだよ。とも思う。
細かい表情や、小さな変化、リアクション。
それに比べれば、セリフの持つ意味なんて、実に些少だ。
けれど、やはり「言語」の持つ、意味を特定する力はとっても強い。
悲しい表情をしても、「悲しい」という言葉には勝てない側面がある。
そこを逆転するのが、芝居なのだけれど、強いものだからこそ、大事に扱わないといけないのがわかる。

昨日の編集部分を整理した。
細かくコマ単位で、セリフの被りなども全て取っておいた。
整理し終わった後、通してみてみたら、監督の想像しているテンポの速さに、笑ってしまった。
芝居よりも、そのテンポ感が面白かったのだ。

思うに、映画が完成したら、このテンポで、生芝居が出来るように練習すればいい。
それだけで、きっと、とっても勉強になるだろう。
なぜなら、編集という監督の脳内世界がはっきりとわかった後なのだから。
求められているテンポ感を体感できるようになるからだ。

いくつかのシーンの尺調整は。
そのシーンのためだけにあるわけではない。
一つのセリフのためだったり、前後のシーンのためだったり、オチのためだったり。
そういう計算の中で尺調整をしている。
それは、もう、物語の構造論にまで達するような作業なのだ。

おいらは思う。
これをシナリオをもらった時点で想像できる俳優になるべきだよなと。
本当に良い役者っていうのは、そういうことが出来る役者なんじゃないだろうか。
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posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 03:55| Comment(0) | 編集 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月14日

世界を作っている

音の貼り付けも25分ぐらいまで進んだ。
順調と言えば順調。
このまま進めば、なんとか、後半の編集には追いつくはずだけれど・・・。
とは言え、通常の映画に比較すれば異常ともいえるほどの台詞量。
なかなか簡単じゃない。

音声はパラレルで映像に同期させるように張り付ける。
最終的には、MAで全体のバランスを調整して、整音していく。
無駄なノイズなどは全て削り取っていく。
可能な限り、セリフだけで抜き出せるなら、抜き出しておく。
定位は、どんな音場で調整するのだろう。
5.1チャンネルなら、360度の音場になる。
映画館で後方から音が聴こえたりするのは、7.1チャンネルだったり、サラウンド、Dolbyなどを駆使しているからだ。
映画ってすごいと思うのは、映画の臨場感を高めるためにあらゆる発明がされてきたこと。
2チャンネルのステレオ以上に、音の位置が広い。
そういえば、まだMAの出力をどこまでやるのか聞いていないけれど・・・。
トオルさんの音楽が、3D音響になったら、おいらは眩暈がしてしまうだろうなぁ。

ダンサーインザダークという映画で、映像がざらついていたのに、音場の豊かさにびっくりした覚えがある。
ある意味でミュージカルといい、ビョークが主演なのだから、音には相当こだわったのだと思う。
映像はあえて、フィルム感を強調して、音はかなり整音したのだと思う。
或いは、音楽畑のスタッフが入っていたような気もする。
ビョーク自身の可能性もある。
その後のサントラなどの展開もあったわけだから・・・。

監督と会える日には、監督としか出来ない繋ぎをどんどん決定していく。
監督と会えない日は、その準備と、終わった編集の整理をする。
その隙間隙間で、音の貼り付けや、タイトル作りや、とにかく、編集以外の部分をやっていく。
同時進行でどんどんシーケンスを完成形まで仕上げていくのだ。
しかし、2時間以上のシーケンスを組み立てていくのだから、その情報量はとてつもない。
そう考えると、帯のドラマ・・・朝ドラや昼ドラマの凄みを感じる。
毎日、編集して完パケを出しているのだから。

映画とドラマの違いというのは、色々に言われている。
畑が違うから、実はスタッフさんの動きなんかも違う。
だから、明確に技術的な違いも多いようだ。
或いは、予算の編成が全く違ったりもする。
でも、基本的に、物語を映像で見せるのだから、同じものだとも思える。

おいらは、そういう様々な違いは、むしろどこかに置いておいて。
単純に視聴者が違うのだと思っている。
ドラマはテレビをつければただで見ることが出来る。
家で見るのだから、別の何かをしながらだって、横になりながらだって見れる。
つまり、集中せずに観ることが出来るメディアだ。
だから、自然、夢中になれるような仕掛けをしていく。
予告や、その回ごとの終わり方も重要になってくるし、CM前後なども重要になってくる。
それに対して、映画は違う。
チケットを購入して時間を作って足を運ぶお客様がそこに入る。
照明を落として、映画専用のサラウンドで、とにかく作品に集中してもらう環境が整っている。
チャンネルを変えることは出来ないし、CMの間に気をひくような演出もない。
一見、意味不明なシーンや、ゆったりと時間を流すことも映画ならできるということだ。
視聴者が違うというのは、すなわり、作品の構造そのものまで変えてしまうということ。

今や、ドラマでもバラエティでも、テレビの世界では、1分に一回は、何かを起こさないといけないらしい。
それが笑いであれ、驚きであれ、泣きであれ、とにかく、なんらかのアクションを起こさないといけない。
優秀なお笑い芸人はそれを理解していて、ネタでもそのテンポを体に入れている。
今や、視聴率も、秒ごとに出てしまうのだから、そこまで徹底しないといけないわけだ。
結果、ずっと面白いけれど、内容が薄いなんて意見もよく目にする。
でも、あれは、内容が薄いのではなくて、どれだけ長い時間見てもらうかの勝負をしているのだ。
そもそも、そこで勝負しているのだから、意見になっていないと思う。
そう考えれば、いかにテレビマンたちが優秀なのか。すぐに理解できる。
逆に映画だと、そもそも長い時間見てもらえることが約束されているようなものなのだ。
だとすれば、どこで勝負するんだ?という話になった時に、様々なテーマが生まれるのだろう。

この「セブンガールズ」も、なぜ、映画なんだよ?という大きな問題がそこにある。
別に舞台のままでいいじゃないかという意見だ。
単純にもっと広い世界に行きたいからだという意味もあるし、この作品を世界に持っていきたいという目標もある。
けれどそれとは別に、この映画で、なぜ映画にしたのかという、作品的な意図は絶対的に必要だ。
そして、それを最初の打ち合わせで話して、それ以来ずっと考えている。

映画でしか表現できないセブンガールズ。
つまり、それはなんなのか。
そこがぶれてはいけない。
それがなければ、とてもじゃないけれど、世界になんか通用するわけがないのだ。

音を貼り付けながら。
映画特有のあの映画館の空気を想像して。
おいらは、もう一度、そのテーマを思い出していた。

大丈夫、ぶれていない。

この音たちが、この映像が、映画館で、セブンガールズの世界に観客をいざなうはずだ。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 04:05| Comment(0) | 編集 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月15日

夜空の扉

大きな大きな満月の夜。
夜空に天国への扉が開いたみたいだ。

先日、映画「ちょき」の東京上映初日舞台挨拶に行った時のこと。
同時にいらっしゃっていたいつも応援してくださる方に言われた言葉がある。
「セブンガールズは、もう、小野寺さんの熱意で進んでいるようなものだ」
・・・なんて言われて・・・

おいらは、思わず、
「そんなことないです・・・」
「これは皆の熱意で進んでいて、僕なんか、皆の熱意の雑用のようなものなんです」
・・・なんて答えていた。
毎日BLOGを更新しているだけでも、考えられないよ!なんて笑ってくださった。

そういう意味では、おいらの熱意はこのBLOGという場所で伝わるけれど。
皆の熱意というのは、中々、伝わりづらいものなのかもしれないなぁと思う。
何事も考え方で見え方が変わっていく。

自分が今、こき使われていると思うこともないではないのだけれど。
そんなことよりも、こういう機会をいただいているという思いの方が圧倒的に大きい。
誰も体験できないようなことをおいらはリアルタイムで体感し続けている。
劇場上映される映画の編集に立ち会っているだけでも、どれだけ大きな体験か。

おいらの悪い癖は、ついつい独学を選んでしまうことだ。
実際、劇団関係で印刷物があれば、印刷について独学をしてしまう。
Photoshopを学び、Illustratorを学ぶ。
学校に行くとか、人に聞くとかの前に、面倒くさくなってしまうのだ。
だったら、自分で触って覚えた方が早いと思ってしまう。
誰もやる人がいないなら、自分がやるよと、ほいほい勉強を始めてしまう。
これまでデータベースでも、WEBでも、なんでもそうだった。
自分の中で師と呼べる人を無意識に選んでいるようなところがある。
誰にでも素直に教わることが出来たら、もっと、おいらは簡単に生きていけると思う。
でもどうやら、それを簡単に出来ない。

編集も独学で学びながらの作業だけれど。
監督が元々持っている知識は、どんどん吸収していっている。
それは、とてもありがたいことだ。
まして、監督の持つ、感覚的な部分に直接触れているのだから。
これ以上の機会はない。
自分の中で師と呼べる人を無意識に選んでいるけれど。
逆を言えば、選んだ人をきちんと信じることが出来るということだ。
だから、むしろ、得していると考えるのかもしれない。

もちろん、その学びながらという作業のガソリンはやっぱり熱意だ。
でも、自分の熱意だけじゃなくて、やっぱり仲間たちの願いのようなものを形にしたいという思いが強い。
そう。形にするということだ。
観念的な思いや願いを、具体的な形にしていく。
ただ映画を作りたいという思いから、実際の映画撮影に必要な部分を用意していく。
そこに、惜しむものなど何もないというだけだ。

逆に今、皆がどんなことを思って、どんなふうに作品を待っているのかなぁと考えてしまう。
きっと、待つことは待つことで、そんなに簡単なことじゃないんだろうなぁ。

ストレートに。
ありのままに。
それぞれの熱意がスクリーンに映し出せれば。
きっと、スクリーンをはみ出すような映画になる。

おいらの熱意だけではとても足りない企画だよ。
いや、映画を完成させるだけなら、それでも良いのかもしれないけれど。
この映画をたくさんの人に観てもらおうと思えば。
この映画を世界中の人に届けようと思えば。
それは、たった一人でどうにかなるようなものじゃないんだ。
そうやって進んでいるのです。
この映画は皆のものなのです。
そして、皆の熱意が、きっと、この映画を世界に運んでいくのです。

明日も編集が待っている。
夜遅くまで、監督と二人で、映画を作っていく。
明日はどこまで進むだろう。

気付けば12月も後半に入るのか。
ここからが勝負だな。
2016年は、最後の瞬間まで、この映画に没入していく。
かつては「夢」だったのがウソのように。
具体的に、没入していくのだ。

こんなこたぁ、誰にだって出来るさ。
たまたまおいらは、そのスイッチを見つけただけなのだ。

夜空に扉が開いてる。
おいらのスイッチは、あの扉を開閉だってできるよ。
扉の向こうは、夢の世界なんかじゃないよ。

・・・カチャ。
ほぅら。スイッチを押してみた。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 03:39| Comment(0) | 編集 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする