2016年11月02日

ジブ

朝目覚めたときに、とってもとっても、不思議な感覚を味わう。
肉体的な疲労感なんか何もない。
2週間も毎日通い続けたあのロケ地に行かない日がやってきた。
むしろ、肉体は、自転車をこがないのか?とおいらに問いかけてくるようだ。
体が動きたがっているのに、動く理由がない。
頭はさえわたっているのに、あの日々ほど回転させるべき作業がない。
外車のスポーツカーが日本の道路を走っているような不完全燃焼感。
呆然とすることもなく、やりきった感もなく、ただ、もっと走れるぜという、おいらの無意識。
搬入の頃は、筋肉が悲鳴を上げた日もあったけれど・・・。
今は、むしろ忙しかった頃に肉体が慣れている状態なのだ。

様々なスタッフさんや、ロケ地を貸してくださった担当者様へのお礼などを送る。
その返信を読むたびに、ぐっと来てしまう。
全ての方々のご協力が一つでも欠けていたらと考えるとぞっとする。
気合や根性、情熱だけではどうにもならないことがあることは大人だから知っている。
今まで舞台でも、そんなものだけではどうにもならないことが何度もあった。
それでも、不可能と思われることを乗り越えるには、絶対的に気持ちが必要なことも知っている。
不可能を不可能と諦める前に、それをする方法を頭で考え、行動に移し、気持ちで乗り越える。
そのいくつかが重なると、信じられないような偶然を呼び寄せる。
もし、もう一度同じ企画があがっても、今回のようにはならないだろう。

役者たちにとっては、ここがゴール。
撮影が終わったら、もう役者に出来ることなんか殆どない。
あっても、音声NGからのアフレコぐらいのものだ。
だからこそ、仕込みを早めに終わらせて、リハーサルの時間をなんとか作った。
次に映像を見るときは、ほとんどが一号試写を終えてからのはずだ。
その頃には、自分が現場でどんな芝居をしたのか忘れている部分も出てくるかもしれない。
きっと、今見るよりもずっとずっと客観的になっているだろう。

撮影期間のブログを読むと、まるで、夢のようだ。
本当にこんなことをやったんだなぁ。

今回、こんな短い期間で、この分量を撮影できた理由はいくつかある。
スタッフワークや俳優の準備、総力戦だったことももちろんだけれど。
実は、これが数年前であれば、ちょっと難しかったんじゃないかとも思っている。
技術の進歩が、この撮影を可能にしていたからだ。
回っているカメラは、デジタルシネマカメラだ。
灯っている照明の何割かにはLEDが灯っていた。
記録媒体は、ハードディスクだ。
録音部だって、当然、デジタル機材を駆使しているはずだ。
フィルムだったら当然、こんなに早く仕事が終わっているはずがない。
LED機材が普及していなかったら、電圧が足りなくなっていただろう。
カメラに使用していたレンズだって、数年前にはなかったものかもしれない。
ハードディスクの容量も、ここ数年で急激に上がったからこそだ。
確認のためのモニターも今は液晶になった。
画質も音質も、数年で劇的に進化している。今も進化し続けている。

編集だって、ノンリニア編集を、今や、編集スタジオに入らずにノートで出来る時代なのだ。

本当は、撮影中に、こっそり機材の確認をして、こんなのを使用している!と書こうと思っていた。
忙しすぎて、そこまで手が回らなかったけれど。
いつか、どこかでこのBLOGを参考に映画を作ろうと立ち上がる人がいた時に参考になると思った。
けれどきっと、そのいつかには、また機材は進化しているだろう。
今や、iPhoneの映像や、GoPROの映像すら、映画に使われることがある時代だ。
ドローン撮影をはじめとして、アクションカムは、数年で映画界にどんどん入ってくると思う。
だから、現時点での機材の説明なんか、あまり意味もないのかもしれない。

ただこの機材だけはここに書いておきたい。
実際に観る人にとってはどうでもいい情報かもしれない。
物語に没頭するには、機材情報なんか余計なものでしかないからだ。
けれど、製作日記を毎日更新している以上、これだけは記録しておきたいという機材がある。
それは「ジブ」と呼ばれていたミニクレーンだ。
2m近いアームにウェイトが付いていて、それがあらゆるカメラの動きをスムーズにする。
ローアングルからのあおりも、ハイアングルからの動きも可能にする。
クレーンが生んだ動きのある映像は、絶対に手持ちや三脚だけでは生むことのできない映像だった。

写真と動画の違いは、動きがあるかどうかだ。
黒澤明監督作品では、動いていない映像が1カットも存在しないといわれる。
カメラが動かないような引きのシーンであれば、煙を炊いて、風を待ち、旗を立てたという。
カメラだけでも、もちろん、動きのあるシーンは取れる。
ズームを駆使する、フォーカスを変更する、露出を変化させる。
様々な動きをカメラだけで表現することが出来る。
けれど、クレーンが生み出す動きは、それをさらに3次元的にしていく。
手前にも美術を配置して、奥行きを出して、人物を狙った映像が、スムーズに動いていく。
もうそれだけで、そこに映る映像は、映画的なものになっていく。
加藤Pが撮影現場に来て、ジブは最初から使ってたんですか?凄い!と口にしていたのを思い出す。
低予算映画や、自主映画で、ミニクレーンが駆使されるなんて中々ないことなのかもしれない。

予算上、1カメになっちゃうと言っていた、監督やプロデューサー。
それが、実際には2カメでの撮影になった。
三脚固定したカメラと、ミニクレーン撮影したカメラが同時に2アングルの撮影を可能にした。
編集でそれがどれほど活躍するのか、ちょっと想像しただけでもわかる。

舞台との最大の違い。
演じることは同じでも、それが作品になるまでのタイムラグ。
今が、そのラグタイムだ。
もう一度、台本を開いて、どのシーンでどんなカットがあったのか思い出す。
編集の時に、そういえば、こんなカットがあったなと思い出せるかどうかで、編集のスピードが変わるからだ。
カットを思い出すたびに、おいらは、ちょっと震えてしまう。
ただの1カットだけでも、泣けてくるような映像が、たくさんあるのだから。

11月に入って、新しいスタートが自分の中で切られていることを自覚した。
肉体は、自転車に乗りたがっているけれど。
意識はすでに、編集に向かっていた。
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posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 04:27| Comment(0) | そして編集へ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月04日

ナグリを置いて、マウスを手にする

11月4日になった。
親父の七回忌。
ロケ地がみつかっていなかったら、行けないことも覚悟していたけれど。
なんとかかんとか行けそうだ。

・・・とは言え、それが終わればロケ地をお借りした企業様に鍵を返しに行くことになっている。
時間がかかるようなら早めに辞するつもりだ。
お世話になったあのロケ地の提供は本当に本当に大きなことだった。
ご担当者様の優しい言葉のメールが、今も胸に残る。
ご迷惑もおかけしたから、お礼をしなくてはいけない。
数十年も眠っていた土地が、映画として記録に残る。
あの素晴らしいロケーションは、もう一度、深く眠ることになるだろう。

このBLOGを書き始めて、一年経過して鍵を返す。
本当に折り返し地点のようで偶然にしては出来すぎな気もする。
でも、これはきっと、そういう偶然が重なってできていく物語なんだ。
現実だけれど、同時にサクセスストーリーでもある。

撮影はまだ少しだけ残っている。
とは言え、早ければ午前中に終わってしまうようなボリュームだ。
一か所だけ、ナイト撮影があるけれど、そのシーンをどうするかで決まるだろう。
あのロケ地では撮影できない、或いは、あのロケ地じゃなくても良いシーンなだけだ。

撮影は終わっていないけれど、編集はもう開始できる。
100シーン以上撮影が出来ているのだから、先行して始めることが出来る。
おいらの手元に来るのがいつになるかはまだ未定だけれど、前倒しして勉強を始めている。

編集と一口に言っても、いくつかの段階がある。
撮影部のハードディスク、録音部のデータを取り込んで、並べていく。
基本的な設定などまでは、やっていただく。
最終的な納品形態にする時に、なるべくコンバートをしないでいいようにだ。
それから並べ替えた映像をこれでもかと追い込んでいく。
ここにカットチェンジを入れるとか、シーンとシーンの繋ぎを変えていくとか。
映画の流れを作っていく編集だ。
それが終われば、今度は色味の調整がある。
同じシーンなのに、別のカメラで別の角度で撮影すれば、色味が微妙に変わったりする。
繋いだ時に、違和感を感じないように全体的な色味を均一にしていく作業だ。
それから、MAと呼ばれる整音が待っている。
オーディオデータを、トラックに並べて、実際の映画館で耐えられるようなものに変えていく。
海外の映画が吹き替え可能なのは、セリフはセリフのトラックに入っているからだ。
効果音や音楽とは別に、セリフのトラックがあるからこそ、吹替が可能なのだ。
それで、納品形態にして、納品。
納品後に、字幕などを含めた映画上映できる形式に変換する作業も待っている。
もしDVDになるのであれば、ここからさらにオーサリングという編集作業も残っている。

おいらが担う作業はその中でももっとも時間がかかる、並べ替えていく作業だ。
おいらがやることのメリットはたくさんある。
もちろん、予算的なメリットもあるけれど、それ以外にもきっとあると思っている。
作品をよく知っているし、監督の意向も理解している。
そして何よりも、監督と二人での作業の時に、監督は、おいらには、好きなように言えるだろう。
馬鹿だの、センスがないだの、ボロクソにこき下ろしたところで、おいらが気にしないのをよく知っている。
監督が思うだけ、やりたいだけ、編集を追い込むのであればそのほうがいい。
そのあとの、色味調整以降は、やはり編集のプロと機材にお願いすることになるだろう。

ただ一つ、問題が残っている。
通常、日本における映像編集は、MacのFinal Cutで行うのが普通とされていた。
最近では、AdobeのPremiere PROを使う人が増えてきたというけれど・・・。
それから最終的な色味の調整など、大きな作業は、Avidというソフトウェアで、やはりMacで仕上げる。
音楽のレコーディングはいまだに、Protoolsがメインだけれど、そのProtoolsを出しているのがAvid社だ。
プロユースの編集、レコーディングソフトウェアを開発している世界的な会社だ。
今回、取り込んで並べ替えるまでのところを、やっていただき、Avidでの調整が出来るように納品することになる。
どちらもMacで、スタートがFinal cutだ。
おいらが編集をやる場合、WindowsのPremiere PROになる。
MacとMacの間に、Winが入ることになるのだ。
ハードディスクのフォーマットから、データ形式、元データを読み込めるかどうかまで。
調べながらやらないと大変なことになりかねない。
最終的にシーケンスデータは渡せずに書き出した完パケを渡す形になることだってあり得る。
Win特有の映像データで保存したら最後、Macで開くことは出来ないのだ。

唯一の救いと言えば、現在、映像の現場では、どんどんPremiereが主流になりつつあるという情報だ。
Adobe社の他のPhotoshop、Afterefectsなどのソフトウェアとの連携や、使いやすさ、4Kの対応、読み込めるデータの豊富さ。
それが、一気にプロユースの中でのシェアを拡大しているという。
最近でいえば、シンゴジラの編集もPremiereだったと記事にあった。
音楽PVなんかは、エフェクトの多用があり、どんどんAdobeになっているらしい。
だから、ネット上で検索しても、本屋に立ち寄っても情報は山のようにある。
おいらもPhotoshopは使っているし、Premiereでいくつか短い編集は経験済みだ。
それに、Adobeは、チュートリアルが非常に丁寧で、今日も一日チュートリアルビデオをネット上で見ていた。
わからなくなっても、すぐに調べられるというのは大きなアドバンテージになる。

おいらが目指していたのは映画を作ることではない。
映画を作って、それを世界まで持っていくことだ。
ただ映画を作って、楽しかったねで終わらせる気なんかない。
そのためには、宣伝であったり、チラシ、ポスター、試写会会場探し、上映館探しと、山のように作業が残っている。
けれど、その全てを円滑にするためには、この編集で、追い込めるところまで追い込むことが先決だと思っている。
すごい作品をまず仕上げておけば、宣伝の効率がぐっと良くなるのは当たり前だからだ。
世界中の人に届けるにはどうしたらいいだろう?なんて考えるのであれば。
この最高の素材を、どれだけ編集で、更に良いものに仕上げていくか悩んだほうがいい。

先々週は大工だった。
先週は俳優だった。
今週からはエディターだ。
エディターが終われば、今度は制作だ。
なんだってやるさ。

学べ。
学ぶんだ。
たぶん、役者にしかわからない編集っていうのがあるはずだ。
それがきっと大きなアドバンテージになるだろう。

まぁ、その前に。
明日、親父の墓に、報告だけでもしておかないとか。
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2016年11月05日

タイムマシン

父の七回忌に向かう。
数年ぶりに会った姪っ子も甥っ子も、想像以上に大きくなっていた。
子供の成長は早い。

時間とは、個人の観念のモノだという。
毎日顔を合わせている仲間の変化には気付きづらい。
嫌なことをやっていれば、最後の1分は永遠のように感じる。
楽しいことに夢中になっていれば、あっという間に時間は過ぎていく。
脳の認識で時間の長さは変わる。
世界は、常に脳が認識していることがハッキリとわかる。
父が亡くなって六年という歳月もちょっと、自分の中では理解できない。
きっと、夢中になっていた年月は、どんなことだって、あっという間に感じさせる。

先週の金曜日は、撮影の最終日で、一番遅くまで撮影した日だった。
おいらは、照明さんのバラシが終わるまで待ったから、帰りがとても遅かった。
それがまさか、つい先週の話だなんてちょっと信じられない。

法事を終えて、某企業に足を運ぶ。
いつものように、笑顔で対応してくださるご担当者様。
お借りしたロケ地の鍵一式をお手元に返却した。

いつになるかわからないけれど、2~3年のうちにあのロケ地がなくなるかもしれないという。
20年以上眠り続けてきたあの敷地は、いよいよもって、更地になろうとしている。
おいらたちは、そこに空気を入れて、美術セットを組んだ。
何年も放置されていたあの場所を最後に映像に収めてもらえることは嬉しいことでした。
そんな言葉をご担当者様に頂いた。
もったいなさすぎるほどの言葉だ。

おいらは朝陽館の若主人の言葉を思い出していた。
廃業する歴史ある旅館の家具や建具をいただいた時に言われた言葉。
この旅館は僕の人生そのものです。ここで生まれて、ここで育ってきました。
どうせ捨ててしまうこの家具を、使ってくれるのは、とても嬉しいことなんですよ。
そんな言葉だ。
まるっきり、同じような言葉を、おいらは別の方から頂いたことになる。

愛情にあふれている。
愛着のある土地に、愛着のある家具でセットを建てたのだ。
そして、おいらは、今、あのロケ地に愛着を持っている。
あそこが更地になるかもしれないという話は、とても寂しいなぁと感じていたのだから。

時間の観念は、脳の認識で大きく変わっていく。
100年続いた旅館の家具と、20年以上眠っていたロケ地と、18年間培ってきた劇団という団体。
その全てが70年前を描いた2時間超の映画になっていく。
結果的に、その映画を観てくださるお客様にとって、それがどんな時間になるんだろう?
映画に封じ込めるのは、脳が認識している世界だ。

鍵の返却が終わった後、久々に新宿の紀伊国屋に行った。
編集の勉強を少しでもしたかった。
amazonじゃ出来ないことだ。
ソフトウェアの使用方法よりも先に、全体の流れ、基本的なことを知りたかった。
おいらは時間を忘れて、本を探して、読んでいた。
これから始まる編集作業から公開までの流れを。
おいらは、後になってどんな時間と感じるだろう?

おいらもいつかは、親父のように目をつぶる日が来る。
その時に、自分の生きた人生をどう感じるかな?
あっという間だった。
そんな風に感じられたらなぁって、つくづく思うよ。
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posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 01:51| Comment(0) | そして編集へ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月06日

濃縮されたもの

編集に向かう前にこの映画製作日誌のBLOGで記録しておかなくてはいけないことがある。
どのスタッフさんもこんな撮影は、考えられないといった撮影手法のことだ。
役者の多くはこの撮影方法の何が凄くて、何にスタッフさんが感心していたのか理解していないだろうと思う。
いつもの舞台で考えればそれほど疑問の挟むようなことはしていないはずだと思っているはずだ。
けれど、この撮影は余りにも異例で、これまでにないやり方で進んでいた。

映画の製作を資金調達からBLOGにしているというのは余りない。
このBLOGをいつか参考にする人が出てきたときに、少しでも力になるかもしれない。
けれども、この手法は、参考にしたからと言ってそのまま実行できるものでもないかもしれない。
これをやるには、多くの時間と、覚悟と、鍛錬と、そして何よりも情熱が必要だからだ。
監督のアイデアと、その手法を理解すること、その全てが揃わないと到底できないことだった。

もちろん、潤沢な資金があれば、こんな方法をとる必要はない。
撮影期間が長くてもいいのだから、たっぷりと時間をかけて撮影すればいい。
逆に資金が少ないのに、長い期間スタッフさんを拘束するような低予算映画もあるらしい。
そういう低予算映画は、映画業界を衰退させるものだという意見もあるようだ。
そういうすべてを解決するには、やはり短期間でクオリティの高いものを撮影する手段を身に着けるしかなかった。
低予算だからクオリティを落とすのではなく、短期間にするということだ。

まず第一に、美術に工夫を凝らしていた。
パンパン小屋のセットは、壁を取り外せるようにしていた。
最大で6枚の壁を取り外し、或いはすぐに取り付けできるように組んであった。
これを1~2分もあれば、男手ならいつでも、セッティングできる。
カメラのアングルが変わるたびに、壁や柱を取り外し、また組み上げた。
それも手が空いている男の俳優が即時やるようにしていた。
そのうえで、ここにカメラをセッティングすれば、殆どのシーンを撮影できるポイントを設定していた。
その視点を中心に物語が展開できるように、シナリオから演出まで仕掛けをしてあったのだ。
もちろん、その視点だけでは撮影できないシーンもあるけれど、基本的にはそこからが中心だった。
そこにミニクレーンを設置すれば、70%のシーンが撮影できるというポイントを作った。

その次に、芝居の稽古だ。
このBLOGを読んでいる人は、稽古を重ねてきたことをよく知っていると思うけれど。
その稽古にも仕掛けがあった。
全てのシーンを通して、いつでも出来るようにしてあった。
通常、映像であれば、シーンはカット割りされ、カットごとに撮影される。
それをカット割りするしないに関わらず、全てをシーン単独で通して出来るように稽古してあったのだ。
誰かが会話しているところに、誰かが帰ってきて、中から誰かが出ていく。
そういう流れを全て、通しでタイミングも含めて稽古してあったのだ。
もちろん、現場ではそれをこっちのカットも撮影しておこうというのが繰り返されたけれど。
基本的に通しで一本撮影しておけば、撮りもらしなどが発生するはずがない。
そういうところまで稽古してあった。
現場では、まずシーンの芝居をスタッフさんに見せて、セッティング後に、カメラテストから本番。
5分以上のシーンも含めて、100シーン以上それが繰り返された。
全てのシーンにはすでに演出が入っており、監督による演出直しも最低限で済んだ。
実際にモニターに映し出された演技を見て、監督が思いついて、やっぱこっちにして!という希望ももちろん出たけれど。
俳優は、即答で「はい」と答えて直し、例えば、映像の現場にあるような「気持ち待ち」など1秒もなかった。
要求された芝居を、すぐに出来るように準備しようと役者同士でも、確認してあった。
そして、通常なら長尺と言われるような撮影が、いくつも繰り返されたのだ。

更にはスケジュールだ。
通常の撮影スケジュールには、時間が書いてある。
8時からシーン○○、10時からシーン○○。12時から昼休憩。
そんなスケジュール組を各シーンのシナリオページ数から割り出して組んでいく。
ところが今回のスケジュールには、何時から・・・という情報が一切なかった。
あるのは、撮影順だけで、撮影できるところまで撮影して、切りのいいところで休憩というやり方だ。
その上、撮影開始当初のスケジュールではこぼれる可能性が多分にあった。
だから、認識として必ず、今日のスケジュールにあるところの撮影は完了して、そのうえで翌日のスケジュールも撮影する。
そういう目標で撮影をしていた。
そして、当たり前のように、常に当日スケジュールだけでなく、翌日のスケジュールも撮影を重ねた。
毎日、スケジュールを巻いていくという徹底的な目標を持っていたのだ。

これをするには、いくつか大事な要素がある。
通常なら翌日スケジュール分の撮影をするのは本当に大変なことらしい。
役者に伝え、衣装さんに伝え、メイクさんに伝え、美術さんにも伝える。
当然、役者はその日の撮影分の準備をしてきているだけだから、断られることだってあるという。
衣装さんからは、その日の撮影する衣装しか用意していないのだから当然、難しいと言われる。
助監督さんが、こんなことを出来るのはありえない!と監督に伝えたのはそういう理由だ。
けれど、フレキシブルに対応するように全役者に伝えてあった。
「スケジュールではシーン54だけど、変更します!このあとシーン23、72、74、95で行きますー!」
この一言で、登場予定の全役者が即座に対応するのだ。
映画内の時系列が逆順になったからと言って、なんの影響もなくだ。
衣装を変え、メイクを変え、美術を変更して、役者の心境も即座に変更していく。
映画俳優からしたらきっと有り得ないことだけれど、舞台で場当たり稽古をしていればそれほど不思議じゃないこと。
準備もしていたけれど、いつどのシーンを撮影すると言われても対応できる俳優であり続けた。
もちろん、その日に撮影予定がない役者も、常に現場待機していた。
翌日分も撮影する可能性があると全員に伝えてあったからだ。
少なくてもおいらは、当初のスケジュールで火曜と金曜は撮影予定がなかったけれど、撮影しない日なんかなかった。
いつでも、撮影できる準備をしていなくては出来ないことだ。
日によっては3シーン分の衣装を重ね着して待機していた。

気付けば、予備日に予定していた撮影分も最終的にスケジュールに組み込まれ、予備日には撤収準備に入れた。
誰もが出来るはずないと思っていたボリュームを、本当に撮影しきったのだ。

凝縮した時間で撮影することに、クオリティで疑問視する人もいるかもしれない。
本当に最高のカットを撮影するために、1カットに1日かける映画監督だっているのだ。
納得できる芝居が出るまで、何度でも撮影する監督だっているのだ。
けれど、おいらから見れば、そっちの方が実はクオリティが低い場合もあるんじゃないかと思っている。
なぜなら、たった1日で、どんなに繰り返したところで、劇的にクオリティが上がるわけがないからだ。
4回の公演を繰り返し、7か月以上稽古を重ねた芝居が、たった1日の偶然の芝居に負けるわけがない。

スタッフさんから撮影後にいただいた言葉においらが泣けてきたのはそこだった。
既に芝居が完成されていたことだとか、撮影しながら涙したシーンがあったことなどが書かれていたのだ。

凝縮した時間で、全ての撮影を終わらせるという目標は、現場にある種の緊張感を生んでいた。
ダメな芝居をすれば、全員に迷惑をかけてしまうというプレッシャーが常に俳優にはあった。
フィルムからデジタルになった一番の弊害は、何回だって撮り直しが出来るという状況を作ったことだ。
フィルムと違って、デジタルはNGが出ても、現実的に予算を食うことがないからだ。
俳優が自分の芝居にどうしても納得がいかなくて翌日に・・・なんて話も何度か耳にしている。
ひどい話でいえば、俳優が今日は出来ないと口にして、翌日になったなんてことも聞いたことがある。
おいらたちは、一発本番で、一発OKを常に目指していた。
舞台俳優だから、「芝居の一回性」を肌で知っている。
NGを出した俳優は、本気で悔しがるだけではなくて、スタッフさんに申し訳ない・・・と全員が口にしていた。
一発OKが出れば、俳優はハイタッチをして喜んだ。
絶対に、カメラテストが終わってからの本番で、最高のモノを出す!と気持ちを固めてあった。

製作スタッフが、この撮影方式を全ての映画に導入してくれたら、どれだけ良いだろうと口にした。
全てが、予定よりも前倒しで進んでいくなんてことは、今までの経験で有り得ないことだからだ。

撮影最終日。
プロデューサーが現場を観に来た。
最終日にもなれば、ほぼ全員が現場に慣れていて、スタッフさんを含めて、一つの座組になっていた。
撮影の流れも、スタッフさんの動きも、わかってきた中での、全体の動きを見て、プロデューサーは泣けてきたと口にした。
芝居をしている俳優、セッティングしている俳優、スタンバイしている俳優。
全員が、このスケジュールでの撮影に向かって、スムーズに動いていることに、驚いていた。
そして、よーいスタート!の声と共に、モニタに映し出される芝居に、驚いてくれた。
動き回っている人間が、本番のカメラの前で、一気に俳優になるのを目にした。
こんなことは、普通の映像の現場でありえないんですよ。
・・そんなふうに、おいらに言ってくれた。

映画のクオリティを本気で上げようと思うのであれば。
やっぱり、プロのスタッフさんが、プロの仕事を出来るようにするしかない。
けれど、予算がないのであれば、格安でお願いするか、時間を絞るしかないのだ。
もちろん、格安ではあるけれど、時間を延ばすようなことはしたくなかった。
そして、それに応えるための仕掛けと、芝居を用意するしかなかった。

自分の芝居は棚に上げるけれど。
皆がした芝居は、本当にすごいものだったと思う。
結果的にどんな映像になるかは、編集後の話になるけれどさ。
そして、公開後に誰からどんな評価をされるのかも、まったくわからないことだけどさ。
おいらが、モニタを通してみる限り、素晴らしい芝居が繰り返されていたよ。
少なくても、おいらは、胸を張って言い切れるよ。

これは、情熱がなければ出来ない撮影方法だけれど。
結果的に、作品的にもマッチした、素晴らしい映像を撮影できる方法でもあったと思っている。
ある意味では舞台的で、ある意味では映画的で。
その融合を高度なレベルでやっていく方法であったんじゃないかと。
夢を夢とせずに、現実として受け止めれば、夢ではなくなる。

これは、そういう風に撮影された映画なのだ。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 03:17| Comment(0) | そして編集へ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月07日

胸を張れ

劇団では公演後の翌週に必ず反省会をする。
あのロケ地を離れて、初めてみんなと顔を合わせる日。
反省会をやろうということになった。

もちろん、反省もしたけれど。
口から出てくるのは、あの撮影中に起きた数々のこと。
思い出というにはまだまだ記憶に新しすぎるし、生々しいというには時間が空いている。
笑いながら、反省点を少しずつ見つけ出していく。
ただ、笑い話をしているように見えるけれど。
中には、当然、自分の反省の実を受け取る者もいる。
ただ笑っていても、自分の成長にはつながらないから。

でも、実際は違うかもしれない。
あのロケ地を離れて、日常がやってきて。
それから、初めて、皆と会った日。
共有した時間を過ごした仲間と、もう一度顔を合わせること。
それだけで、あとの会話なんて、実はたいした意味もないのかもしれない。
苛酷だったとはいえ、楽しかった日々はすでに過去のものになっていること。
それをもう一度認識するような、こそばゆい時間だった。

けれど、いつもの公演後の反省会とは違うのだ。
作品はこれから完成に向かう。
役者は仕事をやり終えて、安心の時の中に入っても。
ここからが、本当の勝負の始まりだ。
おいらたちのやってきた18年間がついに、世界と対峙する時がやってくる。
認められないかもしれない。
けなされるかもしれない。
でも、逆もある。
社会にさらされるのはそういうことで、そういう勝負をこれからしていくのだ。
胸を張って、やったことを誇ればいい。
誰に何を言われても、胸を張れるだけのことをやってきたよ。きっと。

来年の初頭にも、平日でもいいから舞台に立とうという話をする。
映画に集中していたから今年は秋の公演がなかった。
せっかく応援していただいたのに、会えなくなるなんて理不尽だ。
おいらたちは、あのたくさんの人たちに会わなくてはいけない。
いつものように、板の上に立たなくてはいけない。
そして、ここにおいらたちがいるということを、もう一度、示さなければいけない。
下北沢から世界へ。
ホームグラウンドを離れるわけにはいかないんだ。

未来が待っている。
その未来は、相変わらず下北沢の舞台の上で、芝居を続けているおいらたちだ。
そして、そんなおいらたちのまま、世界に向かって勝負だってできる。
これは、幸せなことだと思うよ。
だって、未来があるんだから。

本当は、皆に会って、今日は、ありがとうと言うつもりだった。
大変な企画を立ててしまって、皆を巻き込んだ張本人だ。
楽しんでくれたからとかそういう問題じゃなく。
単純にありがとうと思ったからだ。
でも、皆の顔を見たら、なんにも言葉なんか出なくなったよ。
ありがとうね。
相手役の顔なんか、恥ずかしくて、見れやしないおいら。

立ち止まるな。
また一歩足を出せ。
その先に見える道は、どこにだって繋がっている。
未踏の道を、おいらたちは切り開いたのだ。
誰もやったことがないことをおいらたちはやったのだ。

胸を張れ。
強く。
胸を張れ。

高く高く、足を上げろ。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 02:13| Comment(0) | そして編集へ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする