朝目覚めたときに、とってもとっても、不思議な感覚を味わう。
肉体的な疲労感なんか何もない。
2週間も毎日通い続けたあのロケ地に行かない日がやってきた。
むしろ、肉体は、自転車をこがないのか?とおいらに問いかけてくるようだ。
体が動きたがっているのに、動く理由がない。
頭はさえわたっているのに、あの日々ほど回転させるべき作業がない。
外車のスポーツカーが日本の道路を走っているような不完全燃焼感。
呆然とすることもなく、やりきった感もなく、ただ、もっと走れるぜという、おいらの無意識。
搬入の頃は、筋肉が悲鳴を上げた日もあったけれど・・・。
今は、むしろ忙しかった頃に肉体が慣れている状態なのだ。
様々なスタッフさんや、ロケ地を貸してくださった担当者様へのお礼などを送る。
その返信を読むたびに、ぐっと来てしまう。
全ての方々のご協力が一つでも欠けていたらと考えるとぞっとする。
気合や根性、情熱だけではどうにもならないことがあることは大人だから知っている。
今まで舞台でも、そんなものだけではどうにもならないことが何度もあった。
それでも、不可能と思われることを乗り越えるには、絶対的に気持ちが必要なことも知っている。
不可能を不可能と諦める前に、それをする方法を頭で考え、行動に移し、気持ちで乗り越える。
そのいくつかが重なると、信じられないような偶然を呼び寄せる。
もし、もう一度同じ企画があがっても、今回のようにはならないだろう。
役者たちにとっては、ここがゴール。
撮影が終わったら、もう役者に出来ることなんか殆どない。
あっても、音声NGからのアフレコぐらいのものだ。
だからこそ、仕込みを早めに終わらせて、リハーサルの時間をなんとか作った。
次に映像を見るときは、ほとんどが一号試写を終えてからのはずだ。
その頃には、自分が現場でどんな芝居をしたのか忘れている部分も出てくるかもしれない。
きっと、今見るよりもずっとずっと客観的になっているだろう。
撮影期間のブログを読むと、まるで、夢のようだ。
本当にこんなことをやったんだなぁ。
今回、こんな短い期間で、この分量を撮影できた理由はいくつかある。
スタッフワークや俳優の準備、総力戦だったことももちろんだけれど。
実は、これが数年前であれば、ちょっと難しかったんじゃないかとも思っている。
技術の進歩が、この撮影を可能にしていたからだ。
回っているカメラは、デジタルシネマカメラだ。
灯っている照明の何割かにはLEDが灯っていた。
記録媒体は、ハードディスクだ。
録音部だって、当然、デジタル機材を駆使しているはずだ。
フィルムだったら当然、こんなに早く仕事が終わっているはずがない。
LED機材が普及していなかったら、電圧が足りなくなっていただろう。
カメラに使用していたレンズだって、数年前にはなかったものかもしれない。
ハードディスクの容量も、ここ数年で急激に上がったからこそだ。
確認のためのモニターも今は液晶になった。
画質も音質も、数年で劇的に進化している。今も進化し続けている。
編集だって、ノンリニア編集を、今や、編集スタジオに入らずにノートで出来る時代なのだ。
本当は、撮影中に、こっそり機材の確認をして、こんなのを使用している!と書こうと思っていた。
忙しすぎて、そこまで手が回らなかったけれど。
いつか、どこかでこのBLOGを参考に映画を作ろうと立ち上がる人がいた時に参考になると思った。
けれどきっと、そのいつかには、また機材は進化しているだろう。
今や、iPhoneの映像や、GoPROの映像すら、映画に使われることがある時代だ。
ドローン撮影をはじめとして、アクションカムは、数年で映画界にどんどん入ってくると思う。
だから、現時点での機材の説明なんか、あまり意味もないのかもしれない。
ただこの機材だけはここに書いておきたい。
実際に観る人にとってはどうでもいい情報かもしれない。
物語に没頭するには、機材情報なんか余計なものでしかないからだ。
けれど、製作日記を毎日更新している以上、これだけは記録しておきたいという機材がある。
それは「ジブ」と呼ばれていたミニクレーンだ。
2m近いアームにウェイトが付いていて、それがあらゆるカメラの動きをスムーズにする。
ローアングルからのあおりも、ハイアングルからの動きも可能にする。
クレーンが生んだ動きのある映像は、絶対に手持ちや三脚だけでは生むことのできない映像だった。
写真と動画の違いは、動きがあるかどうかだ。
黒澤明監督作品では、動いていない映像が1カットも存在しないといわれる。
カメラが動かないような引きのシーンであれば、煙を炊いて、風を待ち、旗を立てたという。
カメラだけでも、もちろん、動きのあるシーンは取れる。
ズームを駆使する、フォーカスを変更する、露出を変化させる。
様々な動きをカメラだけで表現することが出来る。
けれど、クレーンが生み出す動きは、それをさらに3次元的にしていく。
手前にも美術を配置して、奥行きを出して、人物を狙った映像が、スムーズに動いていく。
もうそれだけで、そこに映る映像は、映画的なものになっていく。
加藤Pが撮影現場に来て、ジブは最初から使ってたんですか?凄い!と口にしていたのを思い出す。
低予算映画や、自主映画で、ミニクレーンが駆使されるなんて中々ないことなのかもしれない。
予算上、1カメになっちゃうと言っていた、監督やプロデューサー。
それが、実際には2カメでの撮影になった。
三脚固定したカメラと、ミニクレーン撮影したカメラが同時に2アングルの撮影を可能にした。
編集でそれがどれほど活躍するのか、ちょっと想像しただけでもわかる。
舞台との最大の違い。
演じることは同じでも、それが作品になるまでのタイムラグ。
今が、そのラグタイムだ。
もう一度、台本を開いて、どのシーンでどんなカットがあったのか思い出す。
編集の時に、そういえば、こんなカットがあったなと思い出せるかどうかで、編集のスピードが変わるからだ。
カットを思い出すたびに、おいらは、ちょっと震えてしまう。
ただの1カットだけでも、泣けてくるような映像が、たくさんあるのだから。
11月に入って、新しいスタートが自分の中で切られていることを自覚した。
肉体は、自転車に乗りたがっているけれど。
意識はすでに、編集に向かっていた。