2019年02月26日

Above us only sky

最近、お隣の韓国の政治的発言であるとか、色々なことが起きていて。
自分もそれに関してはなんというか腹立たしいなぁと思ったりする。
いわゆる中学生的に言えば喧嘩売ってるんじゃないの?というレベルに見える。
もちろん、色々な政治的立場や色々な思想的立場もあって色々な意見がある。
中にはワイドショーがあおっているなんていうのも見かけたけれど実感は少しだけ違う。
レーザー照射のニュースの段階で自分の周囲の普通の主婦とかも怒っていたりして。
大多数が怒っていたり不快だ!となってからワイドショーが取り上げていたと思う。
韓国側から見れば全然違う意味かもしれないし、そういうことっていうのは扱いが難しいなぁと思う。
正直、自分の感じたこと以外はなくて、意見と言えるほどのものも持っていない。

ただ。
ここでいう「韓国」とは自分の中で、要するに今の韓国という国。国体。政府。
そういうものを差して書いている。
少なくても自分が日本という国が海外で非難されたとして、それが日本人と同義にされていたら凄く厭だ。
だから自分がそういう事を感じたり思う時は「韓国人」であるとか「韓国文化」とは切り離している。
製造、商業、政治、様々な仕事がある中で表現を選んだ自分はそれが何よりも重要なことだ。

むしろ韓国人の友人と仲良くして、韓国映画や音楽などの文化を楽しんで、キムチを食べて。
おおいに韓国で生まれたものを愛するべきなんだよなぁって思う。
なんだかそこをごっちゃにしちゃっている人を見かけるとすごく悲しくなる。
国が嫌いだと、人も嫌いなんて、ものすごい野蛮な考え方だ。
結局、人同士が嫌いあえば、お互いが嫌いになって、嫌いな人たちが増えて、嫌いな人たちが投票した国体になる。
そこになんの未来があるのだろう?憎しみの連鎖は結局ハッピーな未来に向かうと思えない。
自分の近くにいる友人の一人として、人間同士の付き合い方をすることこそ、ハッピーな未来に向かうのに。
スマフォなんか、日本製の物も韓国製の物もカヴァーを外したら日韓合作みたいなものなのに。

自分が二十歳の頃だった。
短い期間だけれど池袋にある雀荘のボーイのバイトをしていたのだけれど。
そこは在日の方がオーナーのお店で、オーナーの弟さんが店長をやっていた。
小僧だった自分はそこでやけにかわいがられた。
オーナーはコムタンが好きで、店長はテグタンが好きで、その違いすら知らなかった頃だ。
自分は良いのか悪いのか、まぁ完全なる日本人なわけだけれど顔も同じだし日本育ちだしなんの壁もなかった。
色々なお客様がいてオーナーの古い知り合いなんかも顔を出していたのだけれど。
そこにいた初老のお客様にも「あんちゃん」と呼ばれて本当にかわいがられた。
雀荘でなんか働くなよ、仕事さがしてやろうか?と声をかけてくれたりした。
ちなみにその方は、あの人気小説、麻雀放浪記に出てくるパクさんのモデルになった人だ。
もうそういう悪い人との付き合いは俺はないよなんて笑っていた。
小指が半分だけ欠けていたから、どこかでけじめをつけて抜けたんだなぁって勝手に思ってた。

もう何十年もその人たちに会っていないけれど。
じゃぁ、あの人たちを嫌いになるか?と聞かれたら絶対にならない。
オーナーが教えてくれた焼き肉やキムチの美味さを忘れることはない。
雀荘なんかにいたら悪い連中もいるからと、若い自分を遠ざけるようにしてくださった優しさも体に残ってる。
君がいると店が明るくなるから本当はやめてほしくないんだよと笑顔で言ってくれたのも覚えてる。

その時につくづく思った。
文化って簡単に飛び越えていく。
音楽だって芝居だって映画だって食文化だって麻雀のようなゲームだって。
皆でモスバーガー食べたいっすねぇ。なんて言いながら笑ったりさ。
あの映画観て来たぞ~!とかさ。
人間同士って言うのはそういうふうに繋がっているんだなぁと学ばせてもらったんだと思う。

中国にマクドナルド一号店が出来て大行列になっているとネットニュースになったのなんかつい最近なのに。
今や経済が活性化して世界的な経済的影響力を持つようになった。
政治家が何人訪問したって崩せなかった壁を、ハンバーガーはいとも簡単に崩して見せた。
文化ってそういう力を持っている。

今、少し政治的にギスギスしていて。
在日の有名俳優による犯罪なんかもあったせいか。
悲しくなるだけのつまらない言葉をSNSで何度も目にした。
自分の友人であるとかそういう人間的な部分がないままの発言をいくつも目にした。
こいつら、あいつら、おまえら。
Twitterはだいぶ前に始めたんだけれど厭になってやめたのはそういう発言が多過ぎたからだ。
なんだったらすぐにそういうことを政治的思想的な誘導に利用するような発言も出てくる。
そういうのを見ると嫌気がさしてしまう。
色々な立場があって、色々な意見があって、それが自由に発言できることがSNSの良いところだけれど。
他者に敬意を欠いた発言は、実はそれを書いている本人が疑われてしまうと気付かないのかなぁ。
批判と悪口の境目がなくなっているような発言は全て非表示に設定出来ないものかなぁ。

豊かに文化の交流をしていけたらなぁと思うよ。
日本のアニメを韓国の若者が愛して。
韓国のアイドルを日本の若者が愛して。
中国のスターを愛して、台湾の女優に憧れて。
アメリカの映画に圧倒されて、ヨーロッパの映画に心を震わせて。
ナショナリズムとか民族主義とは違った、日本ってこうだよな!って表現がまた新しく生まれる。
そういう循環こそハッピーに繋がっていく道だと自分は信じている。

映画「セブンガールズ」は。
・・・というか、デビッド・宮原が描く物語にはいつも答えがない。
娼婦は悲惨だったとか、娼婦はやめた方が良いとか、そういうことさえ書かない。
争うばかりの男たちですら、否定も、肯定もされないまま物語が進む。
答えは全てお客様に投げている。
メッセージもテーマもいつだってあるのに、答えは作家が出しちゃいけないと自分を律している。
お客様の中に生まれた気持であるとか、思いだけが真実で、それ以上を創らない。

政治的であったり社会的であったり思想的なメッセージが込められた作品だって素晴らしい。
けれど文化は恐ろしい側面があって、独裁者は文化を利用してイデオロギーを定着させてきた。
だからこそメッセージ性の強い作品ほどそこに慎重になっているはずだ。
セブンガールズは終戦直後の物語なのだから、簡単に社会派作品にすることが出来る。
ましてや娼婦の物語なんて社会派以外の何物でもない。
けれど恐らく女性団体だって、反戦組織だって、この作品のバックアップはしないと思う。
娯楽に昇華させているからだ。

自分はそこで生きている。
人間を観る場所に立っている。
自分が出来ることはそういうことなんだって思っている。

答えはいつだって隣にいる人との会話の中にあるんだろうな。
そんな風に思ってる。

だからセブンガールズを一緒に見て、どんな会話が生まれているのかなぁなんて想像をする。
もしそこに国境という壁があっても、きっと簡単に飛び越えているはずだぜって信じている。
髪の毛の色も、目の色も、性別も、ぜ~~~んぶの壁が一瞬でなくなるはずだ。

だってそこで生まれた感情は誰にも支配されていない本当の自由なのだから。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 04:03| Comment(0) | 映画公開中 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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