明けて大阪上映まで二日になった。
日本全国、一人でも多くの人に届けばと始めたのに。
いざ都内を離れて、大阪を目前に控えると自分たちの小ささを改めて感じてしまう。
誰か有名な俳優が一人出演していれば、まるで違うのだろう。
誰誰が出演している映画!となれば、まさにそれが看板なのだから。
それもなく、日本全国に映画を持っていって、本当に足を運んでくださる方がどのぐらいいるのだろう?
思い出すのは、宣伝の打ち合わせの最初の最初だ。
セブンガールズの宣伝は絶対に「気取ってはいけない」という話にまとまった。
プロデューサーの強い言葉でもあったし、自分も強く納得する言葉だった。
そもそも看板がないのだ。
もうあけっぴろげに、ただ「セブンガールズ」という作品なだけなのだ。
自分たちで映画を創ったぞ!凄い作品だぞ!観て欲しいぞ!それだけなのだ。
人気急上昇中の誰誰が出演する問題作!とか、そんなキャッチコピーはありえない作品だ。
それにしても、なんていう丸裸なんだろう。
都内であれば、これまで舞台に足を運んでくださった方々がいる。
そういうバックボーンが、劇団という単位にはない。
メディアにのっていない活動は地域を限定される宿命を背負っている。
一体、どんな風に受け入れられるというのか。
例えば、監督の登壇であれば、もしかしたら違うかもしれない。
週刊モーニングで漫画原作をしていたという実績は、全国区だからだ。
ひょっとしたら、その前のバンドや他の活動時代のお客様もいるかもしれない。
それに、地元出身の俳優たちは、地元の友人や家族が来場してくださるかもしれない。
関東まで来なくては見れなかった雄姿を、観ることが出来る機会は早々あるものじゃない。
けれど、そうじゃない役者たちが登壇することはどういう意味を持つのだろう?
例えば、自分を知っている人なんか数えるほどしかいないはずで。
その自分が登壇することに、価値を見出してくださる方がいるのだろうか?
この人が登壇するなら観に行こう!というほどの名前じゃない。
自分の登壇はある意味、初めての出会いなのだから。
どんな出会いが待っているのか、楽しみではあるけれど、それがどこまで効果的なのだろう?
もちろん、同じ日にいくつかある作品の中で唯一イベントありだからというお客様がいるかもしれないけれど。
少なくても、ただ「出演者」とか「企画した」とかが、どれほどの価値があるのかさっぱりわからない。
20年間、劇団で積み重ねてきたものは、自分たちの大きな大きな武器であり、宝物だ。
その全てをこの映画には詰め込んである。
だからこそ、この映画を観て欲しいのに、その第一歩をどうやって導いたらいいのだろう?
20年間積み重ねたものは、全て都内という限定地域だったのだから。
結局、恐らくあるのは、「セブンガールズ」という作品そのものが持つ訴求力だ。
だって、都内を出た瞬間から全員無名の俳優なのだから。監督だってそれに近いのだから。
だとすれば、あらすじであり、キャッチコピーであり、話題性であり、イメージだ。
どんな作品だろう?なんか見ておかなきゃいけない気がする。
純粋な作品が持つそういう魅力が、どこまであるかが、全てなのだ。
そして、上映後は、関西地区での口コミ・・・ネットだけじゃない・・・だけが頼りになる。
低予算で、少ない撮影スケジュールで、自分たちで映画を創ったというバックボーン。
今や黒歴史に近い「パンパン」と呼ばれた娼婦たちを描いた作品という、物語。
都内で満員御礼を繰り返し、多くの映画ファンが喜んでくださったという、実績。
恐らくほかのどの作品にもない、見たことないと言われる、スタイル。
そして何よりも、現代を生きる多くの人の心が動いたという、現代性。
その全てを合わせたのが、セブンガールズの持つ作品そのものの訴求力だ。
そこに実際に興味を持ってくださる方がどれだけいらっしゃるか。
それしか、頼るものがない。
何度も何度も考えたチラシの内容、キャッチコピー、メインビジュアル。
そういう全てが試されているのかもしれない。
魅力的かどうかが試されているのかもしれない。
大事に大事に生み出した子供を、丸裸で、素手で、旅に出すのだ。
興味を持ってくださっている方がどれぐらいいるだろうか。
自分だって何度も何度もある。
本屋をうろついて、表紙だけで出会った素晴らしい本があった。
なんとなく気になって観てみた結果、特別な一本になった映画があった。
偶然知り合って、話してみて、一生の仲間になった。
そういう出会いが幾つ生まれてくれるだろう?
作品を観てくだされば自信がある。
そりゃ好みはあるだろうけれど。
伝わって欲しいことが伝わる自信がぶれたことはない。
そして観てくださった方の心が、ほんの少しでも動いてくださることだけは固く信じている。
けれど、作品に興味を持って、観てみようと考えてもらえる自信はなかなか持てるものじゃない。
自分たちは弱いのだ。
自分たちは無名なのだ。
自分たちは小さいのだ。
だからこそ、大きな声で叫ぶのだけれど。
大通りじゃ叫べないから、裏通りから叫ぶのだけれど。
岡山出身の甲本ヒロトさんが「世界の真ん中」という曲の中の歌詞に書いた。
「僕が生まれたところが世界の片隅なのか?」って。
岡山と地域の近い広島を舞台とした戦時から終戦直後を描いた漫画のタイトルが「この世界の片隅に」だった。
そして、その漫画がアニメ映画になって、公開から今まで、700日以上も上映され続けている。
東京なんていう、まるで日本の真ん中ですという顔をしている場所で活動していたくせに。
いざ、東京を出るときに、感じている。
自分たちは「世界の片隅に」いたのだと。
世界の真ん中とはきっと、日本全国区である人たちだけの場所なのだ。
でも負けない。
少なくても。
意志だけは。
世界の片隅から、世界を睨みつけてやる。
見捨てられた裏通りから、世界中に向けて発信してやる。
アンダーグラウンドから、本物ってなんなんだよ!って突き付けてやる。
だって、うそっぱちだぜ?
世界の真ん中なんて。
それこそ、幻想じゃないか。
だまされてたまるか。
地球は丸いんだ。
真ん中なんかどこにもないのに、真ん中みたいな顔しやがって。
この映画のど真ん中に流れている血潮は気取って着飾って宣伝できるものじゃない。
感じてもらうんだ。直感を働かせてもらうんだ。
なんだかわからないけど、観なくちゃいけないと思った。
そんな人たちが都内にもいたんだから。
それが本当の「世界のはじまり」だ。
「奇跡のはじまり」だ。
中心でも片隅でもない。
そこから、はじめるんだ。