稽古日。
本番当日の動きを確認しておく。
それぞれに役割分担。
稽古場に到着して、少し話すと、稽古が始まった。
しばし見学。考える。
今、この稽古は何が行われているのか。
自分の班の稽古でやることは決めてあるから、別の班では考える。
起きていること、それが目指している場所。
自分の稽古。
役者は演出家の言葉に様々な反応をするけれど。
例えば、そこで振り向いてと言われても、出来ません。という役者もいる。
なぜ、出来ないのか、そこがとても重要なのだけれど。
けれど、そこで出来ませんというようではいけないと考えている。
そういう演出なのであれば、その指示に従う。
ただ、意味もなく振り向くと、俳優には違和感が残ることがある。
出来ませんと言う役者が、引っかかっているのは、その違和感が厭だからだ。
でも、うちのメンバーは、基本的に、そこで出来ないと言わない。
とにかく、言われたことをやる。
それで、生まれた違和感は、役者側で解決する。
それを何年も繰り返してきた。
幸せなことに自分の班のメンバーは、出来ないとは口にせずやる。
違和感は、自分である程度まで処理する。
ここはこういう意味だから・・・と一応の裏付けを作っていく。
裏付けが創れたら、違和感は、薄くなっていく。
そして、うまくいけば、それがむしろ自然と感じるぐらいにまでなる。
ただ振り向くのではなくて、理由が合って振り向くという所までは役者が作ってくれる。
今日の稽古は、その裏をつくって違和感を消している箇所を一つずつ潰していく作業を選んだ。
理由が合って動いていればそこに嘘はないと考えそうなものだけれど。
実は、そんな動きにも嘘が少しずつ入り込む。
裏付けは、役の気持ちではなくて、舞台意識であったり、見栄であったり、様々な角度で付けられる。
そういうのを「芝居の嘘」と呼んで、それをどう見せていくのかも役者の仕事と認識している。
仮面ライダーが必殺技の前にポーズをする意味も理由もないのだけれど。
「かっこいいから」という理由で、ポーズをすることが役者には出来るのだ。
当然、役者であれば、そういうことだってとっても大事なこと。
けれど、じゃあ、冷静に考えれば、そこに嘘はないか?ということになる。
ポーズを決める暇があったら、必殺技を叩き込めばいいのだから。
上手な人ほど、陥りやすいポイントがそういう所にある。
ベテラン俳優が、若手俳優の芝居を観て、ドキリとするのは大抵そういう部分だったりする。
技術的に、あるいは心理的に、不可能を可能にする術が多いほど、それが出来ずまっすぐなだけの演技に驚く。
そこはせめぎ合いになるのだろうけれど、限りなく、嘘を消していくという作業。
確かにここはこういう動きをお願いしているのだけれど、そこにこんなニュアンスも入れて欲しい。
それだけで、多分、役側の気持ちに嘘が消えていくと思うというようなこと。
その程度の変化だと、残念ながら集中してみていないと、気付かないほどの変化だ。
そのわずかな変化が、全体に繋がっていけば、作品になった時に大きなイメージになると信じて。
象徴的だったのが、ここはこんなことを思い出しながらにして欲しいとお願いした個所。
そう、今日は「お願い」をいくつかした。もう演出ですらない。
すぐに役者から返ってきた、それはハッピーな方?切ない方?という質問にも即答出来た。
それでやってみたら、やっていることも動きも変わらないのに、華やいだ。
明らかに、絵として明るくなった。
あくまでも、印象に過ぎないけれど、それは外から見ての変化だけのことだった。
演じている当人たちは、印象どころか、もうまったく違った感じに変化したと口にした。
全然違うよ。
それは、吸っている空気の味が変わるようなことだ。
目には見えないから、そこにいる人にしかわからない。
けれど、ほんの少しだけ、その空気を吸っている顔色が違ってくる。そういう変化だ。
座ると言われたから座るのでは、ない。
それでは、ただ、言われたとおりに動いて、書かれたとおりに喋るのが芝居になってしまう。
人形浄瑠璃を観ればいい。
人形の後ろに立っている演者が本当に怒り、本当に泣いているから。
決まった動き、決められた言葉から、「本当」を見つけ出すのが、芝居だ。
そこにある嘘に敏感になって、選ぶことが出来るのが、俳優だ。
とっても疲れる稽古だった。
なんだか、持ち時間の間、ずっと、役者にお願いをしているような時間だった。
そして、そのお願いを外側から見ながら感じることが出来るか、自分を試しているような時間。
だから、監督の班になって、その稽古を観ている時は、実は神経がヘトヘトだった。
全く違う位相で稽古をしている。
最初に見学した稽古は、ずっと考えていたのだけれど、考える余力が残ってなかった。
呆然と、自分の班の稽古の余韻で、受信だけし続ける。
ああ、今、嘘のことやったなぁ・・・とか、続きの感覚で観てしまう。
違う作品の、違う段階の稽古だというのに。
飲み屋で話す。
稽古の手ごたえがある酒だった。
いつもどこか反省しているような酒もある。
でも、今日は、手ごたえが合ったなぁとはっきりと感じる酒になった。
そういう日があるのは幸せなことだ。