映画は監督のモノ、ドラマは脚本家のモノ、舞台は役者のモノ
なんて言葉を聞いたことがあるだろうか?
芝居をやっていると、ちょくちょく耳にする言葉だったりする。
映画は、どんなに芝居をやっても、監督が編集したりカットしたりできる。
ドラマは、膨大な映像量だから、シナリオが重要になっていく。
舞台は、例えどんな演出をしても、結局、役者がそこにいるという存在感がある。
実際に現場に行くと、そんなことはないよなぁと思ったりもする。
それぞれの場面で、どんなスタッフさんも、自分のモノだ!と言いきれる誇りを持っている。
それにそれぞれ、特性もある。
監督も脚本家も俳優も、特性があるのだから、何でも同じではない。
例えば、セブンガールズの編集では、監督は、役者をとても重視していた。
ここは良い顔をしているから、使いたい!というケースがとっても多い。
作品性であったり、こういう絵を使いたいというのがないわけではない。
常にベストな編集結果が頭にあるけれど、それでも、役者の良い所を探そうとしている感覚がある。
それは多分、監督の特性だ。
監督としてのエゴももちろんあるけれど、それが全部徹底している必要性なんてないと考えているのかもしれない。
監督がそこまで気をつかう必要ないんじゃないですか?と言ったこともあるけれど。
そうもいかないだろ?ってあっさり、笑いながら言っていた。
あっさり言うあたりが、監督の特徴なのだと思う。
脚本家だって、当て書きじゃないとシナリオを書けない人だっているし。
ドラマの演出部に、丸投げの脚本家だっているはずだ。
連続ドラマは、毎週毎週が戦いだから、演出が何人かいて、回によって違ったりもする。
もちろん、入念な会議や打ち合わせをしているし、総合的にチェックする人もいるだろうけれど。
でも、落ち着いて考えると、自分もどこかそういうことを感じているのかもしれないなぁと思った。
映画は、確かに監督の名前で、観たいなぁと思うことが多い。
ドラマも、確かに脚本家の名前で、あ、面白そうだなって思ったりする。
舞台は、役者を見て、興味が強くなったりする。
いつの間にか無意識的に自分でもそういう選び方をしているかもしれないと思った。
でも、実は日本の舞台演劇の世界では、短い期間これが逆転していた時期がある。
60年代の終わりから、90年代の初めぐらいまでの期間だ。
それまでは、歌舞伎でも新派でも新劇でも、俳優の名前で、お客様を集めていたはずだ。
60年代以降、地下演劇というのが立ち上がって、座付作家、演出家に注目が集まっていった。
例えば、小林薫さんに、元状況劇場とか元赤テントという人より唐さんのところだったんですよね?という人の方が多いはずだ。
早稲田小劇場、状況劇場、天井桟敷と、もちろん劇団名は有名だし、伝説のように語られるけれど。
そして、当然、そこに出演していた俳優たちの名前も、伝説になっているけれど。
それでも、やっぱり、鈴木忠司さん、唐十郎さん、寺山修司さんの創る芝居を観に行っていたという感覚が強いはずだ。
おいらは芝居を始めた頃は、まだそういう感覚が残っていて。
つかこうへいさんだとか、野田秀樹さんだとか、鴻上尚史さんだとか。
多分、三谷幸喜さんとか、平田オリザさんぐらいまでは、それが続いていたと思う。
劇団が大きくなるのは、やっぱり、座付作家兼演出家が有名になるのが一番の近道だった。
戯曲賞や演劇賞を、作家が受賞するのが、一番有名になる方法だった。
今は、劇団というもの自体が、非常に曖昧になっている。
一人のカリスマが構築した演技論を突き詰める団体なんて、もうほとんどなくなった。
プロデュース公演が全盛だし、どこの劇団の公演にも客演の俳優が出演している。
一流芸能人まで小劇場に出演するような機会も増えている。
作家や演出家の名前で、お客様を呼ぶ時代はいつの間にか去っている。
良い悪いは、わからないけれど、自然とそうなっている。
舞台の魅力は、どんな役者が出演しているのか?が一番強くなっていると思う。
劇団がイデオロギーを持たなくなったのではなくて、持てなくなった。
映画は、それが残っている。
監督の持つ何かをどこか求めている。
小説や漫画も、そうだろう。
でも、映画業界も、少しずつ原作物が増えたりして、監督の持つ何かを見つけづらくなりつつあると思う。
別に、誰が監督してもいいんじゃないか?っていう作品も増えているんじゃないだろうか。
舞台は役者のものだ。
板の上に上がってしまえば、もう誰も何もできない。
そこで行われる劇表現が全てだ。
それでも、どうしてか、思う。
演出家の時代の終わりに触れていたことは、幸せなことだったなぁと。
作家や演出家の個性が、そのまま作品の個性、集団の個性になっていた時代を知っていて良かった。
集団の個性って言葉はおかしいか。
映画が今も、監督の持つ何かを求めているのだとすれば。
実は、社会的には、何かすごい作り手の出現をいつでも待っているんじゃないかって思う。
だから、舞台の世界もいずれ、また、そういう流れが来るかもしれない。
感性に触れたい。
その時代の感性に。
だから、映画も小説も漫画もなくならない。
エセの懐古主義なんかじゃない、本物の感性。
そういうものに、飢えている自分に気付いた。