明日は満月で、それも皆既月食だ。
赤茶けた満月が観れるのか、天気予報は曇り予想もあってわからないけれど。
いつも満月には、小さなお知らせも含めて何かがあった。
なんだか、特別な日がやってくるような気分だ。
昨日、ブス役について書いて、基本的な物語の形って他にもあるなと、考え続けていた。
欧米では、大学に演劇専攻科目があって、シェイクスピア等々、戯曲の分析をしている。
だから、日本よりもずっと、物語の構造論は発展している。
物語の大きなパターンは、いくつかに分かれるとか、そういう基礎的なことが身についている。
日本では意外に、そういうことを教えてくれる場所って少ないはずだ。
そういう基礎的な流れの中から、王道を行くのか、あえて外すのか。
そういうことから、物語が生まれることも良くある。
日本で生まれた物語は、それでも、実は評価が高いと思っている。
漫画、アニメの世界になると、世界中にファンがいるのだから。
日本の代表的な物語は、勧善懲悪だ。
士農工商という身分制度の中で、芝居や落語は、庶民から生まれた文化だ。
欧米のように貴族文化ではない。
だから、庶民が、カタルシスを感じるような物語に人気が集まった。
勧善懲悪とは、文字通り、良い人が悪者をこらしめる物語だ。
桃太郎だって、猿蟹合戦だって、勧善懲悪だ。
忠臣蔵だってそうだし、とにかく、悪いやつをやっつけるのが日本人は大好きだ。
そして、判官びいきだ。
いわゆる、弱いほうを応援するのが、庶民の視点だった。
結果的に、権力者ほど悪くて、立場の弱いものが正義という物語のパターンがとっても多い。
鼠小僧という、本当にいた泥棒が支持されてしまうような土壌があるからだ。
そうなってくると、どんどん過激化していく。
どれもこれも勧善懲悪で、悪は権力者という物語の構造だと、同じような話になってしまう。
だから、悪いやつは徹底的に悪く書いていく。人を食うぐらいまで悪く書いていく。
そして、良い人は徹底的に虐げられた弱い立場の人間になっていく。
そういう物語を見ると、スッキリする。
物語としてはシンプルなのだけれど、シンプルな分、工夫をしてある。
自分も大好きだし、子供の頃は、ヒーロー作品を観ては楽しんでいた。
でも、いつの頃からだろう?
少し、自分の好みが変わっていった。
多分、手塚治虫先生の作品に触れ始めてからだと思うけれど・・・。
自分の好きな作品は、大抵、性善説に基づく作品になった。
いわゆる、人間は生まれ落ちた時は、誰だって良い人なんだという説。
もちろん、そんなものを証明する方法はない。
生まれ落ちた瞬間からの完全な悪もいるのかもしれない。
それでも、人は結局、心の奥に、善なるものを持っているという基礎がある作品が好きだと気付いた。
悪人が出てくるのは構わないのだけれど。
本当に、完全な悪とは思えないような所がある。
そういう作品に、どんどん惹かれるようになった。
なんというか、それは、願いなんじゃないか?とさえ思うようになった。
実は、それは今も続いていて、ただの悪人が出てくる作品は、どこか途中で嫌になってしまう自分がいる。
ワンピースという作品の面白いなぁと思う所は。
(20年間も少年ジャンプでトップ人気を続けているわけで、おいらごときはわからないことの方が多いけれど)
少年漫画だけあって、しっかりと、勧善懲悪の構造になっている。
けれど、シリーズの中で、徹底的に悪く書かれた悪人の役が、別のシリーズに切り替わった瞬間に、変化する。
エピソードを挟んだり、全てが終わってから回想が出たり、後から登場したり、わかるようにして。
悪人が悪人になった理由が、どことなく見えてきて、あそこでああじゃなきゃ、いい奴だったかも・・・と思わせる。
それは、すごい巧みな技術というよりも、尾田先生が悪人として登場させながら、その役を愛しているのだと思う。
そうしようとしているというよりも、性善説を信じているという感じだ。
だから、いつの間にか悪人役にもファンが付いてしまうようなことが良く起きる。
どんなに悪い奴でも、どこか、根はいい奴かもしれないと思ってしまうのだ。
実は、監督の作品に登場する人物も、完全な悪なんてほとんど登場しない。
まぁ、そもそも勧善懲悪を書くことが少ないというのはあるのだけれど。
それでも、構造上、悪側が登場することはよくあるわけで。
それなのに、その悪人には、悪人の正義がちゃんと設定されている。
結構、それは、監督のそもそもの性格的な部分もとっても色濃く影響していると思う。
どこかで、でも、あいつにはあいつの事情があるんだろうなぁ・・という視点を常に持っていて。
心の底から誰かを嫌いになるということは、ほとんどないんじゃないだろうか?
・・・というよりも、偏るのが、あまり好きじゃないんだなぁとよく思う。
物事を前に進めるには、あえて自分から偏ることが必要な場面ってあると思うのだけれど。
そういう時でも、あまり偏りたくないなっていう雰囲気を出してくる。
だから、監督の描く物語は、性善説に基づいている。
それをおいらは、「とてもやさしい」作家だと、いつも言っているのだけれど。
やさしいという言葉には、意味がたくさんありすぎて、ちゃんと人に伝わったためしがない。
酔っ払って子供を殴る父親が、そこにいたとしても。
そこにすら、優しい視点を用意してしまう。
そういう作品を、おいらは、やさしい歌なんだって思っている。