人間が物を認識するというのは、実は、色々なことを複合的にクロスオーヴァーさせているらしい。
視覚や聴覚、言語、味覚、臭覚などなど。
幾つもの情報を、様々な記憶と有機的に繋げているという。
そういうことが段々わかってきたというのは、面白いなぁと思っているのだけれど。
俳優について考え続けている人は学者が言うより先に、なんとなく、そうだなぁと直感していたと思う。
もっと言えば、恐らく、催眠術師や、宗教家は、かなり早い段階でそこに気付いていたんじゃないだろうか。
暗示や、神の啓示は、まさにそんな大脳生理学を逆手に取っているかのような行為だ。
表現行為というのは、それ自体がメタファーだと言われる。
映画も演劇も絵画も、表現すること自体がすでに現実世界に対しているという意味なのだろう。
更に、作品内には多くのメタファーが存在して、重層的な構造になっている。
君は風のようだ・・と言えば、比喩表現。
君が通った。風が通り過ぎた。・・・と言えば、暗喩表現。つまりメタファー。
君を風にたとえているのは同じだけれど。
それを明示しているのが比喩で、明示せず関連しているのが暗喩だ。
映画で何の意味も提示せずに、風に揺れる木の葉が落ちていくカットがあれば、それはメタファーだ。
映像表現、詩の世界、絵画の世界、演劇の世界。
様々なメタファーが発見されてきた。
先日ドラマのことを書いたけれど。
クレーの絵も、恐らく、メタファーとして配置されているはずだ。
そのドラマに例えば、繰り返しセリフで出てきた「パジャマ」というワード。
それは、「家族」や「安心」を表すメタファーになっていた。
作家が意図して配置している暗喩は、答えが見つかる場合もあるけれど。
別に、ヒントすら与えない場合もあって、あ、あれはあれを意味しているんだ・・・と気付く場合もあって。
そういうものが複雑に組み合わさっていくことで、物語は深くなっていく。
そういうことを表現の中で繰り返しているからこそ。
なんとなく、人間が、認知していく、認識していくシステムを直感で理解できたのじゃないかと思う。
例えば、占い師や宗教家は、シンボルを何度も駆使する。
ただのマークが、いつの間にか神聖なものになっている。
それは、人間が概念を理解するシステムの中に、メタファーで理解するということがわかっているからのはずだ。
むしろ、人の理解とは、もっとも根源的な部分こそ、メタファーではないかと最近は言われたりするらしい。
母親の声、笑顔、乳の匂い、そういう最初の記憶を、何のかかわりのないものから繋げていく。
そこが、人間の脳のもっともすごい能力というか、認識力なんじゃないかというのはとてもわかりやすい。
そう考えると、作品を創るというのは、例えばそれがCMのような短い作品だとしても。
世界そのものを創ると言っても過言ではないのかもしれない。
様々なものに意味を与えるわけだから、その作品の神そのものになるということだから。
エヴァンゲリオンで有名な庵野監督が作品内に配置しているメタファーはものすごい数だ。
やっぱり天才なんだろうなぁと思う。
シン・ゴジラでも、たくさんの暗喩を並べていて、音楽にすら配置していて。
それは、やはり、そこまで一つの世界を創らないとと思っているんじゃないかと思う。
そして、きっと、最終的には、作品世界を根源的に認知されたいと願っているんじゃないだろうか。
もちろん、そんなことは不可能なことだとわかったうえでだけれど。
監督も作品を創る時、必ず、テーマがあって。
そのテーマを表に出すというよりも、暗喩で重ねていくことがある。
それは、セリフや、或いは笑いの中に潜ませていたり。
こっそりと、提示していて、世界観を強くしている。
俳優は、肉体表現でそれを発見した時に、大きな演技のヒントをもらった気分になる。
都心で、ひどい雪が降った日だった。
その雪を見て、何を思っただろう?
でも、実は、それはただの雪でしかない。
ゲレンデの記憶も、いつかのあの日も、ふりつもるあなたへの思いも。
それは脳内で、勝手に人間が関連付けてしまう幻想でしかない。
自然界の雪は、なんのメタファーでもなく、ただそこにあるのだから。
けれど、人は関連付けてしまう。
珍しくあの人が、家事を手伝ってくれたから、雪が降ったわ。なんて口にする。
でも、そんな時に、そんな暗喩が、詩を生む。
瞬間、雪は雪ではなくなる。
花にだって、鳥にだって、変身するのだから。
それは、まるで、魔法じゃないか。