劇団ではいつも同じ照明さんにお願いしている。
既に意思疎通も出来ているから、演出家の意向も理解してくださっているし、変更も早い。
作家によって台本の書き方が違うけれど、台本の意図の読み取りも同じ人だから汲み取ってくださる。
そういうこともあって、映画化の時もまず最初に映像の照明の経験があるか確認もした。
実際、ほとんどないという事だった。
もちろん、その答えは想定内の答えで、当たり前なことなのだけれど。
それでも、一応念のために、確認した。
舞台と映像の照明は、もうまったく違う仕事と言ってもいいかもしれない。
舞台の照明はそこにお客様がいるから事前に全ての仕込みをやっておく。
映像の照明は、それこそ、1カット、1アングルごとに、照明の変更があったりする。
カメラの画角内に映る照明だけでいいのだから当たり前なのだけれど。
アングルを変えたら、灯体が見えてしまうなんてこともあるし、常に仕込みをして、バラシていく。
もちろん、基礎的な照明はあるけれど、それが当たり前だ。
舞台の照明は、舞台本番中に仕込むことが出来ない分、芝居をしている最中のオペレーションが必要になる。
シーンごとに灯りを創っておいて、切り替えたり、暗転にしたり、フェーダー操作したり。
映像の照明ではほとんどない、演技中のオペレーションがある。
それと、基本的にロケーションがないから、自然光を計算に入れることもない。
徐々に明るくしたり、時間経過をフェーダー操作で表現したり。
夜の川辺で、電車が通るのを表現してもらったりしたこともある。
光に動きがあるのが、舞台の照明なのだ。
思うに、映像の場合は、光とは絵の具のようなものなのだ。
セブンガールズでは、撮影監督と意思の疎通が早い照明さんが来てくださったけれど。
もう、気持ちがいいぐらい撮影監督の指示にすぐに対応している姿を見て、とても強く納得をした。
考えてみれば、フィルムでもデジタルでも、映像や写真は、光の記録なのだから。
どんな光を焼き付けるか。
それが、映像そのものになって行く。
監督との意思疎通ももちろん大事だけれど、だったか監督は撮影監督との意思疎通が太ければ成立する。
思い描いた絵づくりだけを意思疎通していれば、あとは撮影監督が照明さんと創っていける。
舞台にはいない、撮影監督という存在が、大きな違いなのかもしれない。
舞台には舞台監督が存在するけれど、舞台監督が絵を決めていくことはない。
そこは、演出家の仕事だ。
だから、舞台の世界では、演出家と照明さんの意思疎通が絶対的に必要になる。
舞台を観に行って、あ、この照明さん、ちょっとおかしいなと思うことがある。
リアルな芝居なのに、とにかく明るくする照明であったり。
見栄を張るエンターテイメント作品なのに、顔に影が出るような照明であったり。
どう考えても演出意図とちぐはぐなケースって、意外にある。
それは、照明さんも悪いけれど、演出家が一番良くない。
その違和感に気付けないというのは致命的だよなぁと思うのだけれど。
意外に、高名な舞台評論家でも、照明のことを言及する人って、見たことがない。
照明、音響は、舞台における重要な演出の一つなのに。
舞台照明も、映像の照明も、目指している場所は同じだけれど。
使っている機材だって、同じようなものなのだけれど。
まるで違う仕事をしている。
それぞれが、それぞれの、表現形態に特化している。
仕込み前に置いてある、灯に色を付けるゼラチンシートのナンバーを見て。
ああ、これはあのシーンで使う、朝の灯りだな・・・なんて思ったりする。
そういう面白さはどちらにもあるのだけれど。
同じようにシーンを創っていくのだけれど。
白色電灯が発売されるまでは、夜はオレンジの世界だった。
それが、白色電灯が生まれて、蛍光灯になって。
今や、LED全盛の時代になりつつある。
当然だけれど、照明も変化していかなくてはいけない。
蛍光灯の感じと、LEDの感じは、実は少し違うのだから。
そういう時代の変化にも対応しながら。
あまり注目されることもなく、世界を染め上げていく。
例えCGがどれだけ進化しても、なくなることはないはずだ。
セブンガールズを映画で観ても。
きっと、誰も気づかない。
どこに照明があって、どんな演出をしているかなんて。
だって、もうすでにあの絵の具は、絵そのものになってしまっているから。
おいらは知っている。
照明というものが、いつもそこにあることを知っている。
とっても大事なことというのは、舞台も映像も変わりがない。