芝居なんて土台、不自然な行為だ。
舞台であれば、衆人環境にあって、人に観られるわけで。
映像においても、スタッフに囲まれて、カメラを向けられて。
そういう中で、何かをするというのは、役者が思っている以上のストレスがある。
だから、どんな現場でもオーガナイザーがいる。
それは、プロデューサーであったり、監督であったり、製作進行であったり、助監督であったり。
それぞれの現場でやり方は違うのだろうけれど、現場を進行していくこと自体をオーガナイズしていく。
演者がそれぞれ抱えるストレスを知っていないと出来ないことだ。
休憩を入れるタイミング、ナーバスになっている時間帯、集中させてあげる環境。
そういうものを、陰で調整している人というのが必ず出来ていく。
決められた役割というよりも、それは経験則に基づいて、いつの間にか生まれる役割のようなものだ。
もちろん、そういうことを感じないままの人もいるだろうけれど。
実は、現場を本当に動かしているのは、そういう些細な心配りだったりするのだと思う。
脚本家や、監督、演出部は、更に演じやすいように・・・ということを考える。
役者には当然タイプがあるし、褒められて伸びる人も、叱られて伸びる人もいる。
それに、そもそも、当たっていない役を演じさせてしまえば、とても強いストレスが生まれる。
自分に合っていないという違和感は、演じる行為のストレスを何倍にも何十倍にもしていく。
だから、キャスティングや、脚本の段階から、セリフ一つまで、そこを気にする。
監督も、役者によって言い方を当然変えるし、役の持つ意味もセリフも、微調整を重ねる。
そこで手を抜くことは絶対にしない。
なぜなら、それは良い結果を生む最善策だからだ。
出演者が全員楽しんで演じることが出来ればベスト。
そうじゃなかったとしても、そこに近づけるように、常に考えている。
だから、芝居をどんどん理解しなくちゃできないし、人を見る目も養い続けなくてはいけない。
例えば、一時期・・・というか、今もその傾向にあるけれど・・・
自然な芝居というのが素晴らしいと、される時期があった。
その人の演じるナチュラルな演技を観て、ああ、上手だなぁ・・・なんて言う人がいる。
けれど、それを上手だとか得意だねとか言われても、しっくりこない役者がいる。
そういう役者は、ちょっとそこはわからないと思うはずだ。
なぜなら、自然な芝居にしたって、何種類かあるからだ。
実際、ナチュラルにみせるためのテクニックというのも存在する。
テクニカルに、自然にみせていくという意味では、上手いという言葉が当てはまる。
けれど、ナチュラルに存在するためのテクニックというのもある。
その場合は、別に自然にみせるテクニックなんて使っていない。
とにかく、現場で、自分がその役として生きている状態に持っていくという仕事をしている。
この二つは、結果が似ているけれど、やっていることが全く違う。
そこに役として生きているのだから、当然、産まれてくる演技は、ナチュラルなわけだけれど。
それを、上手だとか、得意だとか、褒めたところで、役者は意味が解らなくなってくる。
ナチュラルにみせるテクニックなんか使っていないのだから。
その役で生きてみたら、このセリフは笑顔で言っていました。
この役を自然にみせるために、このセリフでちょっと笑顔になろう。
この二つは、結果が似ているだけで、まるで違う演技だ。
ただ似ているけれど、ちゃんと見ている人は、その違いは一目瞭然だ。
もちろん、どっちが優れているという話でもない。
好みはあるだろうけれど、両方好きな人だってやまほどいる。
なんとなく、違うと感じていて、こっちの方が好きなんだよなっていう人もいるだろう。
それに実際は、明確に2つのタイプに分かれるわけではなくて、それが混ざっていることが殆どだ。
時にテクニカルに、時に役の思うまま、チョイスしながら演じる役者だってたくさんいる。
その上で、笑わないで!という演出をされることだってあるのだから。
そこを見分けられなければ、恐らく演出家というのは出来ない。
見る目を養うというのはそういうことだ。
それは別に意識さえしていれば、稽古場でも、日常の中でさえ、見つけられることだ。
その芝居が持つ本質、演じている部分、意識レベルと、無意識レベル。
そういうものを観る目は、経験して学ばないと、積み上げることは出来ない。
それが見えない人が、演出的な言葉を使ってしまうと悲惨なことになる。
自分を出すという芝居、他者になるという芝居。
モノローグとダイアローグ。
本質そのものが違う演技が混在しているのが芝居だ。
だからこそ、充分にそこを考えて、感じていかないと、何も見えていないのと同じになってしまう。
この人は自分の芝居を理解してくれていないなぁと思われた時点で、作り手の中の何かが終わってしまう。
そこと勝負して、常に、全体バランスをみながらじゃないと、本当の意味でオーガナイズすることは出来ない。
本質的な問題点を見抜けなければ、頑丈だと思っていた地面さえ脆くなる。
結局、人を知ることしか、前に進む道がない。
知らなければ、些細な心配りもクソもないのだ。
最低でも、知らない事を自覚しないと、何も出来なくなる。
まるで生きることソノモノだな。