映画公開に向けて初めてPと話したときに、ああ、すごくロジカルだなぁと思った。
プロモーションというのは、当然、論理的思考が必要で。
今、あらゆるプロモーションが、ある中、誰もが必要性を感じている。
ロジカルシンキング・・・なんていう言葉の踊る本が、ビジネス書には山のように増えた。
物事を進めていくには、論理的思考を持たないと、何もできないという事は当然だと思うのだけれど。
そのロジックそのものを、わかりやすくしていく教本なのだろうなぁと思う。
ビジネスコンサルティングの人たちは、このロジックを日々解明して、日々生かし続けている。
そう考えるとものすごい世界だ。
論理的思考は、例えば作家さんや、あるいは映像編集でもとても重要なことだ。
全体の構成、バランス、定本。
ロジックがあって、それを知らないままでは、滅茶苦茶になってしまうことが多い。
1秒以内のカットだとしても、その前後にどんな映像を配置するべきなのかという、回答は必ずある。
その上で、このカットを使いたいからと、その前の前の前のシーンぐらいからバランスを取っていく。
論理的な部分がなければ、膨大な時間を整理することなど不可能と言ってもいい。
もちろん、ロジカルシンキングには、明確な弱点がある。
それは、パラダイムシフトと呼ばれる状況になった時の問題だ。
いわゆるパラダイムシフトとは、常識が一気に変化してしまうような状態だ。
最近で言えば、やっぱりスマートフォンの普及、インフラの整備による巨大な無線回線網か?
テレビCMよりも効果的な広告が生まれるなんて誰も思っていなかったのだから。
SNSの台頭などは、様々な業界で、常識を変化させた。
そうなると、その瞬間から、それまでのロジックでは通用しなくなってしまう。
まぁ、恐らく、ロジカルシンキングとは、そういう場合にすぐに新しいロジックを探す思考の事でもあるのだけれど。
とは言え、いかに論理的な思考を重ねていっても、前提が崩れた時は、やり直さなければいけない。
映画の広告だって、例えば、世界情勢が戦争に向かっていけば、全てやり直しになるという事だ。
ただ、自分は、別にビジネスの世界に住んでいるわけではない。
クリエイティブな・・・役者であったり、作品を創作する世界に身を置いている。
そうなると・・・実は、ロジカルシンキングだけでは、成立しない世界があるのを肌で感じている。
もちろん、作品を創ったり、作品構造を理解したり、劇団運営をしていったり・・・。
そこには論理的思考がなければ、とてもじゃないと出来ないという結果になるのだけれど。
それは、人間関係・・・なんてつまらないことは言わない。
人と人とが物を創っていくというのは、何も芸術や創作の世界だけではないからだ。
現代におけるロジカルシンキングには、人との繋がりまで含めての話まで昇華しているはずだ。
まぁ、ビジネス書なんてろくに真面目に読むわけじゃないけれど。
そのぐらいは、さすがに想像できる。
人との関係性や、人間の持つ不確定さまで、ロジックに入れないと実用的なわけがない。
じゃぁ、それは何かと聞かれれば。
論理の反対側にあるもののことだ。
・・・これじゃ、わかりづらいかもしれない。
今、ロジカルシンキングと同じように注目されているのは、フィロソフィー・・・哲学なのだろうと思う。
拘りや、哲学は、ロジックの外にあるもので、それが大きな力を生むと、見直されてきている。
でも、その哲学もロジックは飲み込もうとしているように見える。
だとすれば、フィロソフィーは、反対にあるものではない。
もっと、重なることが出来ないものがある。
「禅問答」というと、わけのわからない話が続いていることを、揶揄するときに使ったりする言葉だけれど。
実際に、禅問答というものがあって、それが仏教における禅宗の基礎をなしていると言ってもいい。
禅僧は、師に、「公案」という問題を出される。
その問題の解答に辿り着いたものが、悟りを得たとされて、印可を受け取れる。
そういう世界があるのだけれど、この「公案」というのが、おいらの感じているものにとっても近い。
有名な公案にこんなものがある。
隻手音声。
「両手を叩けば音がする。さて、では、片手で鳴る音とはどんな音だ?」
そんなお題だ。
これはクイズではない。
身体を叩くとか、指を鳴らすとか、他の人に手を借りるとか。
クイズであれば、その答えがあるかもしれないけれど。
実は、公案には明確な答えが用意されていない。
有名な禅問答の中には、師が弟子の鼻をつまみ、ねじりあげ、痛がっていることで、解答としたりもする。
え?なんだそれは?と思うかもしれないけれど、頭の中で悩んでいる弟子に、明確な痛覚を与える行為まで含めてる。
それをどうやって悩み、どうやって思考を続けて、どこに辿り着くのか。
そして、それは言葉で表現できないような、悟りにまで行ける可能性を持っている。
片手で鳴る音とは、なんなのか?
それを考えて、体験していくことでしか、辿り着けない境地がある。
すなわち、論理の枠を、まず超えていくのが第一歩だ。
頭の中にこびりつく常識をまず捨てて、論理という思考そのものを捨てていく。
ブルース・リーの、考えるな、感じろ!ではないけれど。
思考から、感覚に、移行していく。
超一流と名の付く人達。
もちろん、起業家でもスポーツ選手でもだけれど・・・。
多くの人が、禅というものに触れている。
それは、恐らく、論理的思考の限界を知っているからだ。
創作の世界は、ある意味、禅の世界の延長線上に繋がっている親戚みたいなところがある。
だからこそ、美術、芸術は、多くの人に何かを感じさせる。
別に悟りなんか開かなくて良いけれど。
それでも、時々、公案でも優しいものをみつけて、ぼぉっと考えたりする。
答えなど何もないのだから、何も生まれないのだけれど。
論理は論理。
それはそれで必要なものだけれど。
それをいつでも突破できる唯一の思考方法じゃないかとさえ思っている。
隻手音声に似た、公案が前は好きだった。
「手を叩くと音がする。さて、どっちの手が鳴っている?」
これを真剣に考えられるから、創作の世界にいることが出来るのだと思う。
わけがわからない話のようだけれど。
結局、同じようなことで、いつも、悩んでいるのだから。