稽古日。20周年の企画概要が決まってから初の稽古。
企画に向けての稽古が動き出すのは少し先。
その隙間に当たる期間。
多分、初めてのことをやった。
長編を丸々読み合わせ立ち稽古。
何かの芝居の一部分であるとかはある。
劇団の作品は、長編の場合、作品が最初に用意されたことはない。
だから、たぶん、これは初の体験だった。
芝居の不思議さを感じる。
初めは作家の頭の中にあったものが、活字になって。
その活字がもう一度俳優の肉体を通して、言語化していく。
戯曲や台本は、書き言葉じゃなくて、話し言葉で書かれているとは言え。
瞬間から、それは芝居に生まれ変わっていく。
作家の意図通りの箇所と、そうではない箇所とがあったとしても。
どちらにしても、芝居に見えていく。
いくつか、ああ、こんな感じになるんだ、と感心した。
俳優の持つ魅力っていうのは、やっぱりあって。
その魅力でしか生まれないものがある。
色っぽさもそういう中にしか生まれない。
文字では限界がある世界がその先に広がっていく。
それに長年やっている同士だから、自然と息があっていったりする。
全員同時にわあ!と驚くなんてことは、相談しなくても自然にやる。
緊張感を創るシーンでは、全員で空気を創る。
そういう血の通った芝居に生まれ変わっていくのは、観ていて、感動すら覚えた。
余り気付いていなかった発見もあった。
作品の中に歌うシーンがあるのだけれど、メロディがない。
だから、詩の朗読になった。
朗読というのは俳優にとって一つのスキルだ。
最近では、リーディング公演なんて言って、朗読劇の公演も多くなった。
実は、おいらは朗読劇をはるか20年以上前に観に行って、それからもう行っていない。
俳優のスキルだけれど、これは稽古であって公演じゃないなと、思ったからだ。
その朗読は、外国の演出家で有名な俳優二人の朗読だったのだけれど。
自分の周囲で、もっと朗読がうまい人が何人もいた。
この程度で、公演にするなんてと思って、それ以来足が遠のいた。
実はそれぐらい自分にとっては、朗読は俳優にとって重要な基礎だと思っている。
出来るのが当たり前で、その上で、どうやって朗読していくか、組み立てていくか、最高の訓練になる。
それが、今日の詩の朗読がとっても素晴らしかった。
組み立てもあって、感情の起伏のコントロールもあって、強調などのテクニック、発声まで揃っていた。
ああ、ここを出来るのか。詩の朗読をこんなに出来るんだと、すごい発見だった。
稽古場で朗読をすることなんて、ほとんどないから、初めてに近い状態で、観たからかもしれない。
素晴らしいなぁと、少し感動した。
これぞ、活字が肉体を通して芝居に変化していくことそのものだと思った。
今までにないことをすれば、それだけ新しい発見がある。
普段見過ごしていたことに気付くこともある。
だから、新鮮なことばかりしたくなる。
けれど、飽きてしまうような繰り返しもやはり稽古だ。
どちらもバランスよく続けていかないと結局、なんの力にもならない。
さて。
企画に向けての稽古までにまだやることはある。
新しい事。いつもの事。
二つを同時に駆け抜けていくのだ。
新しい一歩も、やがて、繰り返す一歩になるように。