夕方に小さい子供用の自転車にまたがった少年が目の前に自転車を止めて振り返った。
「さよ、お、な、ら!!」って大声で言う。
向こうに見える何人かの少年がゲラゲラ笑いながら、同じように返していた。
ただのダジャレで、下ネタだけれど。
何が面白いんだか、ゲラゲラと、笑い続けながら去っていった。
でも、その何とも言えない夕方の風景に思わずニヤニヤしてしまう。
まったく自分が子供の頃と変わっていない。
うんこだなんだと言ってはゲラゲラ笑っていた。
犬の糞を見つければ、ギャーギャー騒いでいた。
子供なんてそんなもんでしょ。
ガキの笑いでしょ?
・・・と侮りたくもなるけれど。
それはそれで、実は間違っている。
まだ限られた社会でしか生きていない子供にとって、親というのは絶対の存在で。
おならだとか、そういう言葉を使っちゃいけませんと、家で言われているのだ。
その言っちゃいけない言葉を、「さよなら」という言葉を使って言っちゃう。
ダメだよと言われているものを、工夫して、ダメじゃない言い方をしている。
それが面白いということだ。
大人になれば当然、社会はもっともっと広くなるけれど。
実は、笑いの構造は、そんなに変わっていなかったりする。
言いづらい事、言っちゃいけない事、そういうことを相対化したり逆転することで笑いが起きる。
先輩をひっぱたいたり、社長の頭の上に水が降ってきたり。
綺麗な顔をしたアナウンサーに、女芸人が怒鳴りつけてみたり。
有名な「目黒のサンマ」という落語は、江戸時代に、殿様が無知なことを笑うという噺だ。
社会的に息が詰まりそうなこと、許されない事。
そういうことをあっさりと、笑いは越えていく力を持っている。
思わず笑ってしまうと、許されることが、いくつもある。
もちろん、笑いでやりすごしても許されないこともあるけれど。
コメディ作品の評価が上がったとは思えないけれど。
どうやら、演じ手にとってのコメディの立ち位置は上がっているかもなぁと思うようになった。
それは、多くの俳優が「コメディに挑戦します!」なんて口にするからだ。
笑いは、難しい。
演じ手にとっては挑戦になる。
そういう意識が浸透しているのだと思う。
監督の作品を演じる場合は、当然コメディもやれなくてはいけない。
前半、おかしな登場人物で、後半シリアスになっていくなんてことはよくあることで。
もちろん、お笑い班なんて言って、笑い部分しかやらない場合もなくはないけれど。
最近は、笑いだけみたいな役はほとんどなくなっている。
笑いは構造がわかっていないと、演じることは出来ないから。
実は、わたし、笑いは出来ない・・・という俳優はシリアスも出来なかったりする。
出来る出来ないというのは、あくまでも、テクニカルな意味でだけど。
単純に笑い声という結果がないから、シリアスは結果が分かりづらいだけだ。
監督が意外に若手のお笑い芸人を知っていたりすることがあって。
笑いについては、実は、ちゃんと観てるんだなぁって思うことがある。
演出家だからか、コントをやる芸人の名前なんかが出てきたりして驚く。
積極的に勉強しているという事でもないのだろうけれど、そういう視点で観ているんだろう。
まるで同じネタでも、面白い人と面白くない人がいる。
それと、稽古場ではうけていても、本番ではそこまでの人もいる。
もちろん逆に、稽古場ではうけていないのに、本番では必ず笑いを起こす役者もいる。
それは、純然たる技術だ。
こうやれば、本番で落ちるなと計算して演じているかどうかは、すぐにわかる。
内輪の面白さと、構造の面白さを、区別できるかどうかも大事だ。
さよ、お、な、ら
ニヤニヤしながら観ていたけれど。
それをみて、そんな風に考えていた。
これを見て、やあねぇもぉで終わらせてはいかんのだ。
笑いは、わかりやすく心が動いていることだから。
心が動かない演技も作品も、なんの意味もないのだから。
子供の心が動くのは、そこに、ちゃんと理由があるからだ。
いないいないばあ、で、笑われたときは、結構、本気で悩んだけれど。