今日も打ち合わせから稽古。
何が実現できて、何が実現できないか。
何がベストか。
それを考えながら、こうしたい!ばかりではない明確な道を模索する。
それぞれがそれぞれに、良い方向を向けば、それがベスト。
一つ、今週わかったこと。はっきりしたことがある。
ここの連中は、とにかく、芝居がしたい。
今、芝居がしたくてしょうがなくなっている。
もちろん、稽古では芝居をやっているけれど、その場で配られたテキストに挑戦しているだけだ。
自分なりに解釈して、その尺の中で、物語の組み立てまでやる。
けれど、その場だからセリフを入れるわけでもないし、固まってもいない。
もちろん、演出もつくわけではないから、自力で、解決していく。
それはそれで地力がついていくはずのことでとっても大事。
まだしばらくこの稽古でも当然構わない。
けれど、同時に、台本を家で覚えて、稽古場で演出されて。
自分の心がふるると動く瞬間を、どこかで求めている。
いつも、そういう時期はある。
普通の劇団は公演が決まってから稽古がはじまる。
台本が配られたときには既にキャスティングされていて。
本読みから始まって、立ち稽古、セリフを入れての抜き稽古、演出、通し稽古と進んでいく。
けれど、うちは、常に役者であり続ける。
明日仕事が来ても役者脳が働く、そういう状態をキープしている。
だから、次回公演が決まる前も当然稽古がある。
いや、次回公演が決まって、作品の台本が少しずつ手元に来る場合でも、配役が済んでいない。
だから、キャスティングの時期までは様々な役に挑戦しながら、徐々に作っていく。
台本は、毎週少しずつ配られて、台本が完成するのは本番の前になる。
クライマックスもエンディングもわからないまま、稽古をしなくてはいけない時期もあるのだ。
本格的に演出に入るのは、台本が完成する前であることも、別に普通になりつつある。
自分で台本を解釈して、作って、持ち込んで、という期間が、通常の劇団の数倍あるという事だ。
当然だけれど、それはまったく普通のやり方とは違う。
例えば映像の仕事は、既にシナリオが出来ていて、キャスティングされるところから始まる。
自分の覚えるべきセリフも、演じるべき役もすでにテキスト化されている。
だから、そんな仕事をもらったり、そういう準備ができるときはとても幸せに感じる。
最初から最後までの組み立てを、ヨーイドンで出来るのだから。
セブンガールズの映画版も、もちろん、そうだった。
シナリオの初稿が脱稿したのは、撮影の実に半年前。
それからキャスティングもして、改訂もしていった。
全てが完成されている状態での演出を半年もやれたことは実に幸せに感じた。
普通の劇団なら当たり前だよと言われるかもしれないけれど。
芝居について考える時間は、キャスティング前と後とでは、もう本質が違う。
今は、そういう基礎的な部分を鍛えているだけだ。
そんなものは、本人の自覚次第で、鍛えられたり、身につかなかったりするものでもある。
今、何をしているのか、何を身につけているのかは、実はすぐにはわからない。
いつか、公演に向かう稽古の時に、ああ、あいつ稽古を続けた買いがあったなぁと気付くレベルだ。
そんな微かなレベルのための稽古なのだから、まったくやれやれだ。
ただ、今週、来年の公演について考えたり、人の言葉を聞いたりしている中で。
今、心から芝居を欲しているという事だけは良く分かった。
だとすれば、それをするだけだ。
そろそろ、基礎稽古の成果を自分でも試したくなる時期だから。
映画が公開されても。
芝居をやりたい気持ちは処理できない。
やると言ったら、やる。
それは、自分の生き方。
さて、どうやってやるか。
今日の呑みでも、稽古場でも。
埒もあかない会話の中で、ずっとずっと考えていた。