稽古場に向かう。
おいらの好きな私小説の一節を脚本に書き出して持っていく。
セリフ量が少ないから、持ちながらではなく、覚えての二人芝居。
短い中に、様々な心の葛藤、動きがある内容。
ナチュラルと緊張、呆然自失と自意識。
相反する二つの部分が交錯するような一節。
イメージをもつことって、実は危険だ。
そんな言葉が入る。
これは、意外に大事なんじゃないかと、すぐに気づく。
俳優にとって陥りやすい部分の話だ。
それに舞台だと、言葉で説明されることも。
映画のシナリオだと映像で説明できる分、言葉が少なくなる。
監督の台本はそれでもまだ言葉が多いけれど、一般の映画のシナリオだともっと少ない。
言葉が少なければ、少ないほど、当然、行間が増えることになる。
だから、一見すれば、行間が増えた言葉が少ないシナリオの方が、演じる自由度が高いように見える。
けれど、実際は、正反対だ。
「バカヤロー」というセリフをもらえれば、逆立ちしたって、踊りながらだって、バカヤローの意味になる。
けれど、(むっとして黙る)というト書きだけであれば、役者がやれることなんて、かなり限られるのだ。
言葉はそれ自体に意味があるから、言葉が少ないほど、それ以外に演技で見せなくてはいけなくなる。
いつもの舞台であれば、テンポを出して、物語を紡ぐところを。
今日は、しっかりと間をとって、心の機微を表現していった。
それが出来るからこそ、早いテンポの芝居だって出来る。
それが出来ないのであれば、恐らく、早いテンポでも何かが足りなくなる。
そこに生まれる空気を、感じて、壊して、構築する。
確かめるように、それぞれが挑戦していく。
それぞれのメンバーが自分の細かい修正点、問題点を探るように。
稽古が終わり酒席。
やはり芝居の話になる。
前回の舞台の反省点。
何が足りないのか、何をやるべきなのか。
そんな話ばかり。
結局、足りないものなんかなくても、探すのだと思うけれど。
探さないことには、一歩も前に進めないと思っている。
今いるここではないどこかへと行きたい。
もっともっと先に進みたい。
別にジャングルでも大海原でもないけれど、探検隊のようだ。
まだまだ先も見えないし、まだまだ何が起きるかもわからない。
危険が待ってる可能性だって十分にあるのに。
ここではないどこかへと行きたい。
まるで、確かめるように。
基礎にじっくりと取り組むベテランたち。
その目は、前を向いている。
その目は、遥か先を見据えている。