去年の今頃の忙しさを思うと物足りない日々が続く。
まぁ、逆に去年の今頃は異常ともいえるほど色々なことに手を付けていた。
完全に手が足りないぐらいの分量だった。
シナリオを解析して、シーンを書き出して、矛盾がないか検証してを繰り返していた。
そこまでやったから、自分のキャパシティが増えているともいえるかもしれない。
物足りないわけがない。今もやることはあるのだから。
そして、それでいいのだと自分に言い聞かせる。
今は、パワーを貯蓄する時期。一気に開放する日が来るのもわかっている。
そこにドラマがあるかどうか。
それはとても大事なことだ。
最近の舞台では、まずありえないけれど。
おいらは、常に舞台でもバンドでも自分がちょっとイってしまう瞬間があって。
レッドゾーンにどう入っていくのか、あるいは入らないのかという所で勝負していた。
なんというか、自分の精神の限界みたいなものを、抜け出るというか、越えてしまう。
涙はダラダラ流れてしまうし、怒れば、鬼のようになってしまうし。
場合によっては、袖に帰った後、あまり記憶が定かじゃなかったりするときもあったり。
表出とおいらは呼んでいるのだけれど、そういう瞬間を、ちゃんとドラマにすることを構築しなくちゃいけなかった。
そんなシーンで、なんでそんなテンションになっちゃうんだよ?ってのは、やっぱりまずいからだ。
本能的な、丸裸の人間になる瞬間というのは、作品の中で、出せる場所と出せない場所がある。
でも、絶対に毎回そうなるのかと聞かれれば、それはそうじゃなくて。
ちゃんと最初のシーンから構築して、繋がっていって、ピークを迎えた時に。
すっと、自分で一歩踏み込んで、初めてそういうゾーンに入っていくという感じだった。
そこまで準備しても、どうしても、今日はそういう感じにならないという時もあった。
それぐらいコントロール出来ないものなのだ。
いや、そもそもコントロールしようと思うのが間違いで、もっと原初的な、無意識化のレベルだ。
最近の作品では、そういう瞬間があまりなくて、だからそういう自分にならないように抑えつけている。
針が振り切っちゃえば、どうなるかは、自分が一番よく知っているから。
テクニカルで躱したり、笑いに行ったり、儀式的な工程も踏まないようにしている。
もちろん、それが出来る役割になった場合は、しなくてはいけない。
ドラマは、そういう瞬間に生まれるのだと思う。
お客様と一緒に作品の時間を過ごしてきて。
ああ、今、お客様が自分の演じている役に感情移入しているぞと、生身で感じる瞬間がある。
その時に、開放できれば、それが一番のタイミングで、それより前でも後でもいけない。
それこそが、本当のドラマチックというやつだ。
自分の思い入れだけで、そういう状態になると、それはそれで、もう表現として成立していないと思っている。
でも、そういうのって、なあに?という俳優ももちろんいる。
レッドゾーンに入るとか、ちょっと意味が分からないと言われることもある。
俳優にはタイプがあって、それぞれ、表現方法も構築方法も違うから。
その中で、開放状態になったことがない俳優も実は何人もいる。
だとしても、コントロールできない自分の無意識というものがどうやらあるらしいとは大抵気付いている。
なんか、いつもより、泣けなかった・・・なんてことが役者にはあったりする。
多分、去年のおいらは、芝居をしているので言えば、レッドゾーンに入っていた。
シナリオを映画にするために必要なこと全てをとらえて、同時に脳内で考えていた。
そして、最大のドラマチックな場面である、撮影日に突入していったのだと思う。
だから今は、ドラマで言えば。
たんたんと種をまき、たんたんと積み重ねていく場面なのだ。
そういうシーンなのだ。
いずれやってくる、クライマックスのために。
準備したものでは無ければ突入できないゾーンがあることをおいらは知っている。
その日が来るまで。
その日に向かって、構築し続けるのだ。