大林宣彦監督がショートショートフィルムフェスティバルで話した黒澤明監督の遺言を読んで考えてしまった。
映画には世界を平和にできる力があるんだという言葉はとてもとても重いものだ。
これを読んで、反戦映画を創ってしまうとすれば、それは少し意味が違うと思う。
恐らくそれは恋愛映画でも、エンターテイメント作品でも、その役割を全うできる。
映画文化の持つ根底の部分をきっと、話しているんだと思った。
たった一つのセリフが書けない時がある。
おいらも台本やシナリオを書いたことがあるけれど。
物語を編んでいくことは、そんなに簡単なことではない。
監督なんか、1時間で原稿用紙20枚も書いてしまう時もあるのに。
書けない時は、たった一つのセリフが出てこなくて、何日もかかったり。
せっかく、書いたのに、気にくわなくて、すべて削除してしまうことがある。
1日でも早く台本が欲しいと、おいらなんかは、急かすようにしているけれど。
急かしながら、いつも、申し訳ないなぁ。急いで急げることじゃないなぁと思っている。
面白いのは、何日も悩んで出てきたセリフと、流れで、ノリで出てきたセリフが結局は等価だという事だ。
どっちが大事でもなく、どっちの方が重いという事もなく、どちらにも同じだけ意味がある。
そのセリフが出てきた過程なんか、実は、作品にとってなんの関係もない。
これは、作曲家なんかも同じだよと、何度も聞いた。
あっさりできた曲も、苦しんで生まれた曲も、そこに価値の差はない。
更に言えば、はたから見たら、ほとんどわからないことの方が多い。
ここ、苦労したんだなぁってわかる時もあるけれど、それは少ないケースだ。
とんでもないセリフを、パッと思い浮かんだりもすることがあるのは、何度も聞いている。
それどころか、舞台本番中に、こっちに直して!と突然思いついて言われたことだってあるのだ。
じゃあ、何に苦しんでいるんだ?
なんで、ノリで、やりすごさないんだ?
という事になりそうだけれど。
そこに、やっぱり、根底がある。
黒澤監督の遺言と同じように、根底があるのだ。
その作品のテーマ。意義。意味。そして、その映画が持つべき匂い。
目には見えないし、言葉にもしないけれど、それは作品の軸として、常に流れている。
それがあるから、ノリで書ける。
軸がしっかりしていれば、いるほど、実は、書ける。
その軸の中で、登場人物の持つ役割が固まっていれば、更に、スピードが出る。
それでも、どうしても、書けない瞬間が来る。
それは、根底の部分に近寄った時だ。
軸を決めて、その周りを固めている時は、どんどん書けたとしても。
不思議なことに、そこから真に迫るほど、筆が止まることがある。
少なくても、自分はそうだ。
思えばおいらが鑑賞した黒澤監督の映画には、常に、そういうものが流れていた。
多分、そこから一歩も外れないで、創作していたはずだ。
エンターテイメント作品が何本もあるけれど、ただのチャンバラ映画ではない。
大林監督だって、ただの恋愛映画じゃなかったはずだ。
別に、テーマを前面に持ってきた社会派作品なわけではないけれど。
シナリオの最初の1文字目から、最後の1文字まで、自分の軸というものからは外れていないはずだ。
作家は多かれ少なかれ、そういうものを持っていると、思っている。
監督の持つ人間観というか、人間賛歌は、少なくてもおいらはいつも大事にしているつもりだ。
図らずもこのプロジェクトを立ち上げてから今日まで。
スタッフ的な役割をすることまで、全て覚悟して、やってきたけれど。
編集・・・エディターという作業は、役者であることと同じぐらい作品性に関わる作業だったと今更ながら思う。
その経験があるから、黒澤監督の遺言は、それまでのおいらとは違った意味で読んでいるじゃないだろうか?
全てのセリフ。全てのカット。全てのシーン。その繋ぎ。
そこに、根底がある。
それは、いつか叶うはずの、世界平和への道に繋がっているモノだ。
そのバトンを持たぬのであれば、創作をするべきではない。