季節のものを食す。
タケノコ。
今は一年中食べれるけれど、元々は春にしか食べることが出来ない。
考えてみたら映画も同じだ。
元々劇表現は、実際に足を運んで劇場でしか見ることが出来ない。
進歩は、それを、その範囲を拡大していく。
季節と外れた食材が手に入るようになったことと同じように。
劇表現は、映像に残すことが出来るようになった。
やがて、映像は映画館を飛び出して、家庭のテレビでも観ることが出来るようになる。
今は、テレビすら飛び出して、ネットワークを通じて、携帯端末でも観ることが出来る。
本来は神との交信ですらあった劇表現が、気軽にどこでも楽しめるようになった。
科学の進歩は常に、光射す方向に向かっている。
便利になっているというだけではない。
もっと、素敵だなと思えること、もっと、美しいなと思えること。
そういう方向に進もうと思うからこそ、便利になっていくだけだ。
冬にキュウリをかじり、夏にタケノコを食べることが出来るのは、誰かが光を観たからだ。
戦争は飛躍的に科学を進歩させるという。
確かに、それも、間違っていない。
けれど、全ての科学が本当に兵器開発から生まれたと思っているのだろうか?
ほとんどの開発は、光射す方向を観て、研究され開発されたはずだ。
それを、兵器に転用できると、考えてしまう欲望を持った人がいるだけの話。
世界最古の鉄器が、剣だと本気で考えている人がいるのだろうか。
急速に発展した科学が向かう道が、どこに行くのかなんて、誰もわからない。
結局、想像力で埋めていくことしかできない。
けれど、間違いなく言えるのは、だれもが光射す方向を観ているという事。
忘れてはいけない。
進むことを恐れてはいけない。
光射す方向を見続けなくてはいけない。
進歩は、いつまででも、出来る。
向上は、どこまででも、出来る。
おいらが、歩く道は、そこに向かっている。
強烈な光に。
些末なことや、つまらないレベルに迷わされても。
目指している場所は、いつだって、変わることはない。
それは、欲望から生まれてくるものではない。
それはきっと、生活そのものからしか生まれてこないものだ。
土の中から、頭を出すタケノコ。
光を求めて。
あっという間に、一直線に、天に向かって伸びていく。
竹の持つ純粋さを、おいらは、食べているような気分だったよ。
光を求めて。
篁に潜む、大いなる力を。