世界はあらゆる壁で区切られている。
・・・はずだった。
少なくても、おいらのガキの頃は、ウチとソトがハッキリしていた。
壁には窓がついていて、そこだけが、外と繋がっている場所だった。
今、ポケットに窓が入ってる。
その窓を、指先で操作すれば、地球の裏側のことだってわかる。
ありとあらゆる宗教も、思想も、目にすることが出来る。
テレビからたくさん学んだなぁと思うけれど、今や、テレビから学ぶよりも、ネットだろう。
スマフォで、PCで、タブレットで、窓を開く。
スクリーンは特別な窓だった。
おいらは、ガキの頃、普通の子供より映画を観るガキだったと思う。
・・・というのも、親戚から映画館の招待券をよくもらえたからだ。
東映まんが祭とか、角川映画とか、スピルバーグとか、今、思うと、たくさん見たなぁと思い出す。
家についた外を覗ける窓と。
世界は広いんだよと教えてくれるブラウン管の窓と。
そのどれとも違う、なんていうか、別世界を感じる窓がそこに開いていた。
ただ忘れちゃいけない。
窓から外を覗く時、窓の向こうからも見えるのだという事を。
今、子供にスマフォを持たせる云々で、どんなふうに教えるかと言うのが大事だなんて言うけれど。
やっぱり、大事なことは、自分が見ているだけではなくて、自分が見られている意識を持てるかどうかだと思う。
人のことを悪く書いたりしちゃいけない理由なんて簡単だ。
悪く書いた内容と同時に、悪く書いた人の人間性も見られてしまうからなんだ。
窓が開くとき。
それは、いつだって、両方向に開いている。
映画を製作して世界に持っていく!
これは、ただ、観せたいという、一方的な言葉だ。
でも残念ながら、そんな一方的なものではない。
観た人から、どんな言葉が出てくるかなんか想像もできない。
言いたいことを自由に言っていいのだから。
誰かとの比較だってされるだろう。
それに、役者としては、イメージの固着だってされる。
この俳優はきっと、こういう俳優だと、観た人の中で固まってしまう。
もちろん、劇団の作風もこうだとイメージが固まるし、監督の作品性も固着されるだろう。
まぁ、イメージが固まることはそれほど悪いことではないけれど。
それに従う必要があるわけでもないし、それがないよりはあったほうが、逆手にだってとれるから。
ただ、それを想定しないのは、あまり良いことではないだろう。
イメージと違うと思われるときに、プラス方向にも、マイナス方向にもなるのだから。
外に出るというのはそういうことだ。
公開されるというのはそういう事だ。
特に自分は危ない。
人の評価をそこまで意識しないからだ。
結局、自分が目指すべきところに到達しているのかいないのかだけが、中心にある。
だから、人より気にしない。
ただ、それではいけないのだと思う。
表に出す以上、自分で、意識して、そこを考えなくちゃいけない。
もちろん、映画を、結果的にどのぐらいの人たちが観るかなんかわからない。
そこまでの影響力なんかないんじゃない?という意見もあるかもしれない。
まぁ、おいらなんかは、特に、そういう方に考えようとしてしまいがちだ。
別々の世界があって。
壁で区切られていて。
それを繋ぐことが出来るのが窓なのだとすれば。
窓を開けることは、世界の交錯なのだと、理解しなくてはいけない。
閉じこもっていた部屋から、一歩外に出る最初のスタートになるのだから。
それは、素敵なことだけど。
とてもとても、刺激的なことだけど。
それはまるで、心の中の出来事だ。
皆、心の中に、いくつもの壁を作っているはずだ。
死ぬまで壊さない壁かもしれないけれど。
その壁にはよく見ると、窓が付いている。
思い切って開けてみれば。
世界が広がって、その分だけ、自分は傷つく。
そんなものさ。
人は強くなる。
経験が強くしていく。
弱くなることはない。
弱くなったように見えるとすれば、それは、たくさんの窓を開けてきて、少しナイーヴになっただけのこと。
怒ったり、泣いたりしながら、色々なものを開放してきただけ。
そりゃ、年を重ねれば、涙もろくもなるよな。
でも、それは弱くなっているわけじゃない。
むしろ、強くなっているんだ。
硬い強さじゃない。しなやかな強さ。
窓はどちらに開いてる?
窓の向こうに、何かを観よう。
それは。
同時に、窓の中にいる自分を知ることでもあるんだから。