リフレインと言う言葉は音楽用語だ。
昨日のブログに突然入っていたから、わからない人もいたかもしれないと思った。
同じフレーズを繰り返すことをリフレインと言う。
ちなみに、ギターリフという言葉なんかで使われる、リフというのもある。
リフも同じ繰り返しなのだけれど、どうやら、ロックの世界で生まれた、短い旋律のリフレインのスラングらしい。
繰り返すという意味ではあまり変わらない。
曲全体のイメージを決定するのがリフだとすれば、曲全体の構成に関わっているのがリフレインということになるのかな。
デビッド・宮原はバンドでメジャーデビューもしているように音楽畑にもいる。
だから、曲も書くし、詩も書く。当然、楽器の素養もある。
ダンスグループにもいたことがあるから、当然、体でリフレインの持つ力を理解している。
例えば、曲で言えば「サビ」。
イントロにサビのメロディーを入れて置いたり、何度かサビを繰り返した後に、転調してサビを重ねたり。
同じメロディーを、様々な形でリフレインしていくことで、曲の構成が出来ていく。
当然、ダンスでも同じ振り付けを、リフレインしたりしたはずだ。
舞台と言うのは一回性のものだ。
もちろん、複数回、観劇してくださるお客様もいるけれど、多くのお客様にとって一回だけの観劇だ。
その一回で、どうやって、物語を伝えていくのか。
後で確認することも出来ない、生の舞台の台本の技術として、リフレインを使っている。
ただ物語が進んでいくだけであれば、前半のシーンを忘れてしまうかもしれない。
或いは、あっという間に通り過ぎて、意味が解らないままになってしまうシーンもあるかもしれない。
・・・というよりも、それが当然の事なのだと思う。
だから、同じようなシーンを何度か繰り返していく。重ねていく。
前半の1シーンだけで理解してくれると最初から思っていないのだ。
繰り返すことで、少しずつ、状況を重ねて理解していくことを目指している。
実は、役者にとっては、とてもとても困難な作業だ。
なにせ、同じようなシーンを何度か繰り返すから、自分が今、どのシーンか一瞬見失ったりする。
同じようなセリフが出てくるから、ごっちゃになって、頭に入りづらくなったりする。
そういうことが、実は、デビッド・宮原の台本を演じていると頻発するのだ。
一番わかりやすいのは、笑いかもしれない。
同じようなギャグを、何度か繰り返していく。
最初に演じた笑いが、最後には大きな笑いになっていく。
繰り返すことで、その笑いの本質をお客様がどんどん理解していくのが解る。
一方で、わかりづらいのが、シリアスだ。
実は、シリアスシーンでも、何回も同じような意味のシーンを繰り返している。
最近なら、ゲリラの舞台で、ゲリラが人質に銃を向けるというやり取りを何度か繰り返した。
徐々に緊張感を緩めていきながらも、やり取りの内容はじつは、補足の繰り返しだったと思う。
劇団初のミュージカルでも、誰々が訪ねてくるというのを延々1時間繰り返した。
もちろん、意味の補足の為に繰り返すだけではない。
後半、クライマックスでは、一気に形を変えて、リフレインをする。音楽で言えば転調に近い。
ゲリラの作品では、ゲリラが人質に銃を向ける最後のシーンをクライマックスとした。
それまでとは、違った形での緊張感と、銃を向けるという行為の意味の反転があった。
ミュージカルでは、クライマックスに、裏切り者が訪ねてきた。
それまでの訪問者とは、まったく異質の訪問者が最後の最後に現れる形で、クライマックスを構築していた。
恐らく、どちらの作品でも、最初やその次の、同じようなシーンを明確に覚えているお客様はいないのではないだろうか。
それぞれのシーンは短く、意味あるセリフも1つか2つしかない。
ただ、繰り返すことで意味を補足して、物語の構造を決定する要素になっている。
テレビドラマの泣きめし今日子でも、やはり、リフレインを使用していた。
河原、藤井が、毎回登場しては、リアクションを残していく。
ギャグと言えばギャグだけど、ちゃんとラストでは、物語の動きに合わせたリアクションになる。
最初は、ただ一瞬出てくるお馴染みでしかないようだけれど、実は物語の収束の補足の役割になっていた。
こういう物語の構造を実は、余り役者が考えることはない。
演じ手にとっては、それほど重要な事ではないからだ。
単独主演で、物語の中心にいれば、意識する場合もあるという程度だ。
たまたまおいらは、劇団参加前から、台本を書いたり、台本構造の研究をしていたから気付いたに過ぎない。
演じる側にとっては、だからなんなの?という感じのはずだ。
作家が客観的にお客様に物語を届けるにはどうしたらいいかと考えた技術であって。
主観的な俳優には、あまり、重要性がないからだ。
むしろ、俳優は、たった一回の、印象的なシーンを演じたいという欲求がある。
いつの間にか繰り返していることに気付く俳優だっているはずだ。
映画の手法を見ると、実はこのリフレインを使用している作品がとても少ないなぁと感じる。
寅さんのようにシリーズものであれば、お馴染みのシーンがあるけれど、作品内で繰り返すというのは余り見ない。
どれだけ印象的なシーンを作って、お客様の記憶に留めるのか・・・に徹底しているように思う。
あっても、オープニングとエンディングの2つだけリフレインさせるぐらいだろうか。
ないわけではないけれど、やはり印象的なシーンを作る方に重きを置く傾向にある。
ちなみにハリウッドのエンターテイメント作品だけは、リフレインを使っている。
短いシーン、短いカットも多いし、テンポも速くて、情報量が多いから、必要なのだと思う。
今回の「セブンガールズ」で、初稿が上がる前に、ここの部分をどうするのかなぁとおいらは思っていた。
印象に残る強いシーンを構築するのか。
それとも、劇団でやってきたように、リフレインすることで、作品世界を構築していくのか。
どっちでいくんだろうなぁと漠然と考えていた。
恐らくそのどちらを選択することも、デビッド・宮原は出来る。
一つのエピソードを濃くして、印象的にすることなんか、得意のはずだ。
だから、初稿を見るまで、映画シナリオにどうやって書き直すか、楽しみにしていた。
結果的に、劇団のスタイルが一番出る形を選択していた。
初稿を見て、納得した。
その代わり、これを映像にしていくのは大変だぞと、再び覚悟したけれど。
同時に、どこか安心もしていた。
これが一番、この作品にとっていい形だと思ったからだ。
セブンガールズと言う作品の最大のリフレインは「星がいっぱいでも」だ。
娼婦が歌うシーン、踊るシーン、或いは、劇伴として流れるシーン。
繰り返し、同じ曲が作品の中で流れる。
そして、どれ一つとして同じ形で流れることはない。
折れそうになった誰かに歌ったり、強がるために歌ったり、歌えなかったり。
リフレインするたびに、その曲の持つ力が、増えていくことが分かる。
だからこそ、クライマックスのあの曲があって、エンディングのあの曲が生まれる。
恐らくリフレインの持つ力を肉体で理解しているからこそ書ける作品だ。
思えば、旗揚げ公演から、この手法を得意としていたと思いだす。
何度も何度も名前を呼び間違えるということを繰り返していた記憶がある。
おいらは、出演していなかったから、あくまでも観劇での記憶だけれど。
その手法が、どんどん強化されて行ったのだと思う。
お客様の反応を見て、作品に対する評価を見て、必要な事だったのだと思う。
映画と言う別の表現手法で。
リフレインという大きな力を使用する。
それは、どんな映画を生むだろう?
ジェットコースターのようなテンポでも強い印象を残す。
そんな作品を創ってしまうのだろうか。
それが出来るのであれば、おいらは、興奮してしまう。
それって、誰でにでも出来ることじゃないじゃないかと、興奮してしまう。
これまでの作品(「うた歌うぐらいなら俺は出ない!」「もうすぐ、お家に帰ります。」「泣きめし今日子」)にも、こういうことで観る人に印象づけ、分かりやすくしているだなんて、気がつきませんでした。
気がつかないように仕込んでいるから、不自然さがなく、だから気づかなかったのかもしれません(いえ、自分の理解力が至らなかっただけですね)。
映画の「セブンガールズ」でも、効果を見せてくれるのだろうと思います。
新しい観方ができました。
公開がすごく楽しみです。
日常という言葉がすでにリフレインという意味を含んでいる。
リフレインというのは実は、もっとも、日常に近い表現なのかもしれません。
誰だって、同じような毎日を繰り返しています。
だから、気付かないのは当たり前なのかもしれません。
劇は、劇的にしよう、非日常的にしようとどうしても考えてしまうので、リフレインが少ないです。
それが、デビッド・宮原は逆に多用します。
なぜなら、きっとそれは普通だからなのだと思います。
どんな風に、リフレインを重ねていくのか・・・。
おいらも今から楽しみです!