おいらがデビッド・宮原と出会ったのは、劇団に入る前だった。
その時はなんとも掴みどころのない、感覚で喋る人だなと言う印象だった。
本人は、とても理路整然としているつもりなのに、出てくる言葉は、感覚の言葉。
その違和感にとても興味を強く持った。
芝居を教えるという立場の人が何人かいる中で、おいらは、疑念の塊だった。
その最後の最後に出会ったのがデビッド・宮原で、芝居は数字で割り切れるものじゃなくて、ちょっと不思議な現象ぐらいに捉えていた。
多分、向こうからすれば、やけに脂っこい、変わった奴が来たなぁぐらいだったと思う。
劇団の旗揚げを手伝ったりしているうちに、おいらは別方面から声がかかった。
うちでやらないか的な誘いだったけれど、なんだか、違和感を覚えた。
そこで、相談したのがデビッド・宮原で、そのまま、なし崩し的に劇団の稽古に参加するようになった。
その時すでに、おいらの耳に、「デビッド・宮原は天才だから・・・」という言葉が耳に入っていた。
何人かがそれを口にしていたし、何人かがそれを信じていた。
ただ、どこが天才的で、何を評価している人たちなのかさっぱりわからなかった。
ただ闇雲に「天才」という言葉を使っているだけなんじゃないかと思っていた。
おいらも、天才と呼ばれていた頃があって、それは、まあ知能指数的な事だったんだけれども。
たまたま、ちょっと驚くようなIQが出ちゃっただけでなんだから。
でも、恐らく、そういうものとは違って、何かを天才と言っていた。
誰かが口にした「天才」という言葉の尻馬に乗っているだけの奴もいた。
でも、ああ、この人は天才だと口にしながら、何を天才と言っているのか自分でわかってないんだな。
そんなことを何度も何度も思った。
多分、おいらは「天才」という言葉にアレルギーみたいなものがあって、どこを天才とするのか考えてしまう癖があるからだ。
本当にね。今でも、どこを天才と思っているのか聞きたい人って何人もいるよ。
雰囲気で口にしてるんじゃないかなぁって思っていた。
何故なら、おいらはおいらで、デビッド・宮原は天才だなぁと、しっかりと確認したからだ。
最初に参加した「吉宗暗殺」という作品の中では、実はまだよく何が天才かも理解していなかった。
ただ、意図だけはきちんと自分で理解してついていかないといけない!という思いだけだった。
それが、一瞬で、ああ、天才だなぁに変わった。
一言で言うなら、「違和感に対する嗅覚の天才」なんだということに気付いた。
あ、これはなんかがおかしいな?ということに、とても鋭い嗅覚を持っていることを発見したからだ。
例えば、デビッドさんの創った歌の歌詞には、変な発音がない。
メロディに言葉を乗せるのだから、日本語の発音通りに歌詞を乗せるのは難しい事だ。
音楽を優先すれば、当然、普段口にする言葉とは違う発音で歌われることはよくある。
実際に、メジャーで売れている曲だって、そうなのだから。
でも、デビッドさんは自分が歌う歌にそういう違和感を殆ど残すことがない。
このメロディにこの言葉を合わせるのはおかしいとすぐに判断する。
歌の歌詞が一番わかりやすい。
舞台の台本もそうだった。
おいらは、デビッド・宮原以前の演劇体験がある役者だ。
自分でもやってきたし、色々な稽古場に顔を出したりもしてきた。
そういう意味では演劇畑の常識で硬直している部分もたくさんあった。
でも、そんな常識を軽々と超えていく台本を書いていた。
演劇の世界にいたこともあるけれど、常識にまで染まっていないから・・・とも言えるけど。
実はそれだけじゃなくて、演劇の持つ違和感みたいなものに気付いて、あえて切り込んでいた。
シアタートラムという劇場で、本来は舞台裏になるスペースをもったいないと演技エリアにした。
おかげで、役者は、上手から下手への移動だけで、一度地下3階まで階段で降りる羽目になったのだけれど。
あんなのは、通常の演出家や舞台人なら、当たり前にあり得ない選択だった。
それは性分のようなものかもしれない。
自然と違和感に気付いてしまうのだから。
そもそも常識を疑ってしまうというか、無駄に対する潔癖症と言うか。
無駄な部分は徹底してギャグにしてしまうところが、視点を表している。
ただ、そこに天才性があるのだと確信した。
デビッド・宮原が自分が感じた違和感を完全に撤去した時、その表現は、途轍もなく美しいのだとわかった。
この美しさを目指しているのか。
おいらにとっては、大発見だった。
おそらく漫画原作をしていた頃には、漫画の常識への違和感と戦っていたと思う。
おそらくエッセーを書いていた頃には、作家の常識への違和感を感じまくっていたと思う。
そして今、映像制作の現場に行っても、映像制作の違和感を感じまくっているんじゃないだろうか。
なんで、こう撮影するのが常識なのかちょっとよくわかんねぇな・・・っていうのがきっとたくさんあるはずだ。
プロの仕事をする人たちをリスペクトしているから、立てることもするのだけれど。
立てながら、なんか、違和感があるなぁと思っていたりもするんだろうなぁと思う。
だから、今、映画のシナリオや舞台の台本を書いていて、言葉の違和感とはとても戦っていると思う。
そもそも、日本語の日常会話って、本来はとても散文的なものだ。
擬音なんかもたくさん入るし、セリフのスピードは日常会話から見れば遅すぎる。
喫茶店に行って、耳をすませば、どんな会話も、映画や演劇よりも圧倒的に早い。
考えながら喋っているにもかかわらず、矢継ぎ早に言葉は生まれる。
相手の回答を予測しながら会話するし、そこに微細な感情も乗ってくる。
だから日常会話には矛盾も多いし、散文的にもなるし、擬音なんかも多くなる。
ああ、えっと、だから・・であったり、口癖も頻発していく。
物語を伝えなくちゃいけない以上、言葉は選ぶけれど、会話なのだから会話にしたい。
その日本語の異物感を感じながら、作品を書いている。
舞台ならともかく、映画であればなおのことだ。
映画も嘘の世界だけど、舞台よりもずっとリアルに近づいている。
この言葉の会話の違和感は、違和感として残るんじゃないか?と疑っているはずだ。
多分、本当は視点だって、どんどん動かして、カメラもどんどん動かして。
会話も、会話としてリアルにして、その上で、物語が成立するような。
そんなことが本当はしたいんだろうなぁというのを言葉の端々に感じる。
もちろん、世の中にそんな映画はないんだけどさ。
結果、物語が瓦解して、わかる人にしかわからないみたいな方向に行くタイプでもないから。
そこまで、徹底するっていう事はないのだろうけれど。
今はまだ作家モードで、完全なる監督モードに入っていない。
だから、今、気にしているのは、恐らく言葉が持つ違和感だ。
日常会話の持つテンポを、シナリオで構築できるように考えている。
だから、助詞や助動詞だけの変更や、ト書きだけの変更が、たくさん、入ったのだと思う。
シナリオを校了とした後、今度は監督モードに入っていくはずだ。
そこに本当は、時間を使ってほしいなぁとも思っている。
今、映像制作にいくつか関わっていて。
ああ、この感じがデビッド・宮原の映像なんだよ。と、おいらが納得した作品って実は、ない。
ないっていうのは、おかしな話だけれど、あるけれど、薄い。
泣きめし今日子だって、デビさん節はあるけれど、まだどこか一般的にしているはずだ。
2になって、やっぱり少し濃くなったなって思うぐらいだ。
やっぱり、ヒーローMONOのオープニングや、ラブストーリーに罪はないの方が、ずっと濃かった。
目まぐるしいテンポと、視点の変化、動きのある映像、ついていくのがやっとの情報量と、リフレイン。既視感。
この人にはこんなふうに世界が見えていたのかと驚いた記憶がいまだに残っている。
普通の映像じゃありえないよなという常識を軽く超越した映像だった。
Youtubeで遊ぼうぜと、カメラを持った時に、時々、そういう顔を見せるけれど。
今回の映画企画で、それを全てやることはもちろんできない。
当然、役者の表現があって、撮影スタッフのカメラワークがあって、助監督の進め方があって。
その全てをリスペクトしているんだから、意見をどんどん吸収しながら撮影すると思う。
それでも、おいらは、どこか期待している。
とんでもないキレを持った、あのとがった表現がどこかのシーンで出てくるだろうと。
そして、その表現が、綺麗とは違った意味の「美しさ」を持っているだろうと。
間違いなく、この人は天才だから。
これは人間性であったり、関係性であったり、そういうものとは一切関係ない。
人間として信じているとかいないとか、これまでの歴史とか、それは完全に別の話。
そんなことを言い出したら、面倒くさい所も、厭なところだって、当然あるからさ。
自然と人が集まってくるとか、そういうのとも違う話だ。
つまり純粋にアーティストとしての話だから。
おいらは、完全に信頼している。
この人の持つ、違和感を信頼している。
この人の持つ、美意識を信頼している。
天才と確信している。
だからこそ、本当に自由に自由に作品を創って欲しいなぁと、何度も思ってしまうのだ。