2019年05月31日

まるで傍に居る友人のように

登戸の事件が想像以上に自分の精神に食い込んだままだ。
少年時代に過ごした街で起きた事件だからかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
いつだったかの佐賀で起きた小学生の事件以来だ。
どれだけやるせないだろう。

作家や役者という仕事は因果な商売だと思う。
加害者や被害者、あるいは医者や警察や被害者の保護者。
ありとあらゆるその場にいる人たちを演じる可能性がある。
だからどちらかに偏るのは表現者というのは余り良い事じゃない。
なるべく俯瞰で物事を観ることが出来ないと成立しなくなっていく。
そして時に役者は抑圧された犯罪者を演じた時ほど世間的な賞などの評価を受けやすい。
すごい怖かった!なんて感想が高い評価をされるのだから。

実際自分もこれまでちゃんと学ぶようにしてきた。
連続少女誘拐殺人事件だって、コンクリート詰め殺人事件だって、津山の事件だって。
少年Aだって、裁判記録や、獄中日記まで目を通したことがある。
役に繋がるかもしれないと思えばテロリストの手記だって手にしてきた。
加害者の心を自分なりに解釈して、自分のものにしていくようにした。
だから多くの役者や作家たちは、今、登戸の事件の加害者が何故ここに至ったか、真剣に向き合ってるはずだ。
それはでも勘違いしないであげてほしいのは、被害者への追悼、お見舞いの気持ちもしっかりとあるという部分だ。
ひょっとすると出てくる言葉は、なぜこんな事件に至ったのかになってしまうけれど。
その根底には、被害者への思いがあった上でなはずだ。
それでも作家であれば、人間がそこに至る部分に目をつぶるわけにはいかないだけだ。

ただ自分はね。
そんな風に俯瞰で頭で考えて分析するようなことは、実はたいして大事だと思っていない。
分析は必要なことだけれど、それが一番大事だと思ってしまった時点で終わりだと思っている。
大事なことは、その時、その瞬間の自分の心に生まれたものだ。
どんなに頭で考えて分析しても、その一瞬に生まれたものには勝てないと思う。
今回のニュースを聞いた時に、すぐに思ったのは逃げ惑う子供たちのことだ。
命を落とした方にさえどうしょうもない自分の思いは至らなかった。
それよりも、逃げ惑い、泣きじゃくった子供たちのことを思うと、悔しくてやるせなくなった。
自分はあの街で少年だったのだから。

これからきっと、いやもうすでに。
加害者の背景がほじくられ発表され、新しい犯罪者を生み出さないために・・・と繰り返される。
それはそれで大事なことだし、自分だって部分的に同情したり共感するかもしれない。

でもきっとそんな時も苦しみ続ける子供たちがいる。
布団に入るたびに男に追いかけられる夢を見続ける。
刃物を見ると震える、赤い色を見るだけで気持ち悪くなる。
バスに乗ると眩暈がする、大きな声が聞こえると硬直してしまう。
そういうことが続くんだよ。
そういうことのリアルを忘れるような自分にはなりたくない。
お亡くなりになった方の家族が毎日泣き続けることだけは忘れちゃいけない。
そういうことが生きている限り続くことを忘れてなるものか。

ふざけんじゃねぇ!って思った自分をきちんとそのまま持ち続ける事しか出来ない。

頭で芝居をするようになったら終わっちゃうから。
「相棒」というドラマで水谷豊さんが演じる杉山右京。
クールで知的、いつだって冷静で紅茶をたしなむダンディーさも持ってる。
でもあのドラマを観ていつも思うのは、必ずその杉山右京がどんな話でも一瞬だけ人間的な感情が浮上する所だ。
それは怒りであったり、悲しみであったり、切なさであったりだけれど。
あれだけ完璧にクールな人物像を創り上げながら、実は心の奥に熱いものを持っていることだけは忘れない。
多分、台本を読めばそういう箇所がない話だってあるはずなのだけれど、演技でそれをしない。
絶対にそういう場所をどこかに入れて水谷豊さんは演じている。
いや、むしろその一瞬のためだけに演技を構築しているとさえ思うことがある。
だから芝居ってすげーんだよ!っていつも思うよ。
どんなに同情できる犯人に対しても、杉山右京は感情をあらわにするんだ。ほんの一瞬だけ。
文化人もコメンテーターも社会学者も、こういう表現が出来るだろうか?
でも、一番大切なものがそこにはあるんだっておいらは思っているよ。

二人称なのか三人称なのかなのだと思う。
今、子を持つ親たちは、被害者の皆様を二人称の距離で感じている。
あなた、君、そういう距離感で。
本当は加害者を二人称の距離感で話せる人の問題なんだよね、きっと。
作家や役者はきっと一人称で考えるわけだけれど。
でも普通に生きている人は、誰だって加害者を三人称で語るよ。ふざけんなって。
それはそれでいい。
それが次の犯罪を生み出すなんて言い出しちゃいけないんじゃないかって思うよ。
だってそれは普通のことだもん。

日本にはまだまだセブンガールズが足りないぜ。

嬉しいなぁって思うのはさ。
セブンガールズを観てくださった方の中に、寄り添ってくれる映画だって言ってくれる人がいる事。
もちろん監督の作家性や、技術、そういうものなのかもしれないけれど。
でも自分の中では、役者たちが大事に大事にしてきたものがちゃんと映画に映ってるんだって思っていて。
そう言ってくださるお客様たちは、セブンガールズの登場人物を二人称で考えてくださる。
あいつらとか、彼らじゃない。
名前や、あだ名や、「あなた」の距離感で話してくれる。
スクリーンの向こう側の登場人物なのに、そういう距離感を持てる映画なんてそんなにないよ。

それはこの映画を創るにあたって初めて大事にしてきたというわけじゃないんだ。
これは20年間、ずっとずっと、もう辞めてしまったメンバーも含めて積み重ねてきたものなんだって思っている。
こんな事件に教えられるなんてまっぴらごめんだけれど、ようやくわかったよ。
二度、三度みたときのほうが感動が深いという意味が。
それは普通の映画だと思って「彼ら彼女ら」の距離感で映画を最初は観てしまうからだ。
物語を知って、もう一度映画を観た時にきっと一気に見てくださる方の心の中に滑り込んでいく。
家族や友人のような近い存在感としてスクリーンの中に存在していると感じる。
きっと、そういうことなのだって思う。
自分はもう20年間も、登場人物を友人のように感じてきたから当たり前すぎてわからなかった。

そういうことをずっと目指してきたんだもんね。
虚構の登場人物が、まるで傍にいる友人のようなリアリティを持つような芝居を。

ああ世の中に寂しい人がいるのならセブンガールズを観て欲しい。
きっとスクリーンの中から、あなたに寄り添うのに。
誰にだって感情移入して良いし、誰にだってコノヤロウ!って思っていいよ。
考える隙間も与えない、好きなように気持ちを動かしていいんだ。
喉の奥に刺さったとげのように事件のことが頭から離れない今。
余計に観て欲しいって思う自分がいるのだ。
それなのに予定された上映期間が終わってしまっているだなんて!

どんなに太い骨が刺さっていたって。
寄り添ってくれるものさえあれば、きっときっと。
人は大丈夫だよね?

ね?


映画「セブンガールズ」
公式サイト:http://sevengirls.info/
上映期間終了 皆様ご来場ありがとうございました。

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posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 03:23| Comment(0) | 夢の彼方に | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする