映画と言っても色々な形があると思うけれど。
ちゃんと企画を立てて、実際に作品作りをするとなれば最初にすることは決まっている。
それは企画書を創ることだ。
その前に打ち合わせがあるかもしれないし、企画書を創った結果打ち合わせて作り直すかもしれない。
どちらにしたって映画を製作しようと思ったらどんな映画を創るのかそれがわかるものが必要になる。
それはプロットだけかもしれないし、テーマや狙いまで含めた詳細なものかもしれない。
いずれにせよ最初の企画書があってそれを形にしていってそこから動き始める。
予算を決めることだって、例えばスポンサーを募るのだとしても企画書がなくては始まらない。
現実的に動き始めるとすれば自分で撮影して自分が登場して自分が編集するような企画じゃない限り。
まず間違いなく自分以外の誰かにこんなことをやると伝えなくてはいけないからだ。
最近とてもよくわかったことだけれど、この企画書になる前の段階の映画って山のようにある。
ハリウッドの予告で「構想20年」なんて出てくるけれど、ああゆうのもきっとその前の段階を含めている。
つまり企画書の前、プロットさえ曖昧な企画。
こんなことをやりたいんだよねぇ・・・とか、今度こんな映画を創りませんか?という口頭レベルだ。
場合によっては自分のネタ帳にだけは書いてあるかもしれないけれど。
とにかく個人の頭の中、あるいは個人的なやり取りの中にしか存在しない形になっていない企画だ。
大体そういうストックを映画監督やプロデューサーは4~5本は頭にあるんじゃないだろうか?
前からこういうのはやりたいんですよねぇ。なんて口に出てくる話だ。
そしてきっと構想のままアウトプットされない企画だってたくさんあるのだと思う。
セブンガールズもそういう段階が長くあった作品だ。
いつか映画化したいよねぇなんて話は何度もしてきた。
映画化した方が良いよ!と言われたこともあった。
いつか映画になるかもなぁなんて考えたりもした。
けれど、やっぱりしっかりと企画書を作るまでは微動だにしなかった。
思えば、企画書を作成してクラウドファンディングで掲載できないか提出したのが第一歩だったのだから。
それがなければこの映画は生まれてくることはなかったし、企画にすらならなかった。
企画前の構想とか願望とか、そういう形にならないもののまま永遠に作品にならなかったかもしれない。
企画前の最大の弱点は、〆切が存在しないことだ。
シルベスター・スタローンが売れない俳優だった頃に。
ロッキーの制作を思いつき、企画書とシナリオを書きあげて自分で売り込みを始めたのは有名な話だ。
意外にハリウッドなんかでは俳優の持ち込み企画という作品があったりするのだけれど。
その企画書はいったいどこまで自分で作成しているのだろう?
スタローンは間違いなく本人のはずだ。
エージェントに頼んで企画書を創ってもらった形跡がない。
ある程度売れている俳優であれば友人のプロデューサーと話してプロデューサーが創っているのかもしれない。
なぜこんなことを書くのかと言えば、映画監督とプレゼンにすごくすごく距離を感じるからだ。
映画監督という存在はなんというかクリエイターの塊のような存在だ。
もちろん中にはプレゼンだって事務的なことだって、デジタルガジェットを駆使するタイプだっているけれど。
それでも昔の監督なんかは、やっぱりプレゼンできるような人に見えない監督ばっかりだ。
映画の黄金期は次々に作品を創らなくちゃいけなかったからそんなことはしなかったとは思うのだけれど。
長く長く助監督を勤めながらシナリオを書き続けて企画を持っていくなんてことはあったはずで。
そうしないと新しい監督が自分で道を切り開くなんて言うことは中々難しかったと思う。
けれど、そのシナリオを書いて持っていきプレゼンをするという能力が欠けているのもまた映画監督らしいと思う。
誰かから声をかけてもらって映画を撮影して、監督デビューできた人というのは相当な幸運なのだ。
そんな監督たちは今、デジタル化の波もあって自分たちで映画を製作してしまう。
どこかに企画書をプレゼンするよりも、もうすぐに製作してしまう。
そして、その映画が話題になれば、仕事が繋がっていったりもする。
その繋がった仕事が、次の映画製作だったらまだ良いけれど、映画じゃなく別の仕事だったりもする。
ドラマだったり、編集だけだったり、企業内ビデオや、MVなどなど。
映像に携わりたいのだから、もちろん、そんな仕事が来ればやるべきだし、嬉しいのだと思う。
そう思うとデビッド・宮原には本当はマネージメントが必要なんじゃないかなぁなんて思うことがある。
監督だって、仕事の話が来たら喜んでやって行くし、なんだって創ってしまう才能があるのだから。
ただ委託された映像を創っていくことだってきっと何の障害もなくすいすいやって行くのだと思う。
自分の作品を撮影して欲しい!と心から思っているのは、自分たちしかいないかもしれない。
だから同時にどんな映画が撮影したいのか聞いて、或いは企画の提案をして。
それを企画書にまとめてプレゼンしていくようなマネージメントがどうなるのかなって思う。
プロットだけ書いてもらって、それをストックしてタイミングをみてどんどん提案していく。
そういう営業能力というのはまったくクリエイターの仕事とは別の能力なんだよなぁって思う。
セブンガールズではたまたま自分が企画書を作り、方々に連絡を取ってどんどん現実化させていった。
お前はそういう仕事が得意だと言われることもあるけれど、別に全然得意だとは思っていない。
そういうことも出来るような道を歩いてきて、経験してきたからにすぎない。
本来、自分以外の誰かのマネージメントなんかとてもじゃないけれど続かない人間で。
この作品を映画化したいという一念があったからこそ、監督を担ぎ出す形になっただけだ。
そういうことが重ならない限り、なかなかそういう形にはならないはずで。
だからこそ、今、監督からやってみたい企画をヒアリングして、ストックして、マネージメントする人がいたらと思う。
なんの気なく話をしているだけで、あの監督の頭の中にはいくつもの物語が生まれ続けているから。
お前がやれよとか言われそうだけれど多分出来ないし、監督もそれをよしとしないだろう。
自分はあくまでも監督と出演者の関係性の延長にある。
そして監督ほどじゃないにせよ、頭の中で色々なことを産み出してしまう人間だから。
自分が生み出すものがある以上はそこに踏み込めば逆にぶつかってしまうとわかっている。
なんだったら自分よりも監督の方がそれはわかっているはずだ。
ああ。
口頭レベルの監督の頭の中にある企画を。
誰かに提案されて考えたんだよねぇなんて言っている企画を。
どんどん形にすればいいのにとやきもきしてくる。
まぁそんなに知らないし、ちょっと聞いたりする話ばかりで段階すらわからないのだけれど。
自分ならばとっくに形にして打ち合わせも終わっているようなスピード感で進んでいく。
あれってどうなったんですか?って聞けば、連絡しなくちゃいけないんだよなぁ・・みたいな。
まぁ、そんな会話をするたびに、自分は笑ってしまうのだけれど。
ええええ!なんにも進めてないんすかぁ~~!?!?って。
それがこの監督の気質だし、いつものことだから。
自分たちで舞台をやるときは、どんどん進めるようにやれるけれど企画書前の頭の中はどうにも出来ない。
まるはだかになるからなんだと思う。
映画製作とはなんだと今、聞かれたら自分はそう答える。
映画監督が映画を公開するという事は、そのまま自分が丸裸になって人前に立つのと同じ意味だ。
映画に役者が出演するのだって、まぁかっこつけるタイプもいるけれど、多くの俳優は丸裸になるつもりでカメラの前に立つ。
「丸裸にならせてください」なんて言える言葉じゃない。
あの監督の作品に出たいなぁという言葉は、あなたの前で丸裸になりたいんですという言葉と同じ意味だとさえ思ってる。
というか、丸裸になるぐらいのつもりがないと、作品なんか作れない。
だから作品が生まれるというのはそれだけで奇跡なんだ。
そういう観念的な壁や、人間的な矛盾を、いくつも打ち破らなくては実現しない。
若さから来る初期衝動でそのまま作品を発表することはあるかもしれないけれど、その先はまた別だ。
そんなことを一日中考えていた。
そこにはヒントがたくさんあった。
まるはだかになるつもりでセブンガールズを広めよう。
少なくても自分だけでも。
いつの間にかそんなことを考えていた。