役者なんかやろうと思う人間というのは非常に個性的な連中だったりする。
役者を始めると個性ってなんだよ?ってなって結局全ての人に個性があると理解するわけで。
じゃぁ、役者が個性的と言うのは何なのかといえば、何が何だかわからなくなるのだけれど。
そんな役者たちが集まって劇団を創るというのは非常にややこしいことなのだと思う。
自分の記憶が正しければ90年代の初頭には演劇人たちが「集団論」について話し始めた記憶がある。
「劇団」という集団を保つには、ある意味で集団論を確立していないと厳しい時代になったらしい。
それまでの老舗の劇団が次々に解散していった。
じゃあその時代までの役者たちが個性的ではなかったのか?と聞かれるとそれは違う。
むしろ高度経済成長期前に少年時代を過ごした役者たちは知る限り皆が個性的だ。
色々な家庭が普通に存在して、色々な中で育った役者たちなのだから。
でも現代は違う。
人口の大多数が中流階級になったと言われた後の世代は同時に同調圧力の中で生きることになっていった。
学校のクラスの中で浮いていたらいけないし、流行りの番組は観ていなくてはいけなかった。
はみ出し者は馬鹿にされたり、最悪いじめにあうことになった。
自分の世代の少年たちの親への殺し文句は、「持ってないといじめられる!」になった。
そんな言葉を使ってファミコンなりおもちゃを買ってもらうようになったのは多分70年代前後の生まれからじゃないだろうか?
それより前の世代の話を聞くと、手縫いのグローブで野球をやったり、バッタモンを皆が使っていたりした。
自分たちの頃にはそれは許されない風潮になっていった。
今の子供たちもきっと親にその殺し文句を使ってスマートフォンを買ってもらっているだろう。
子供の頃から同調圧力の中で生きる不自由さと誰もが戦って来たんじゃないだろうか?
自分の意見がないの?なんて言われたりして、結局その自分そのものが風潮や空気を気にして生きていると気付いたり。
そんな中で苦しんで、自分ってなんなんだろう?って考えるようなはみ出し方をした連中の中から役者の世界に入ってくる人間が増えた。
だからこそ、集団の中に身を置くという事にどこか反発があるというか、どこか天邪鬼ばかりになっていく。
それが90年代初頭には集団論について語られるようになったという事なのだと自分は考えている。
それが恐らくは今の役者を目指す「個性的」という意味だ。
集団にうまく馴染めないというか、どこかはみ出してしまうという人たち。
集団、団体の中にありながら、多くの意見に流されないぞ!とも考えているのだから。
まして会社組織や、学校でもない。
そこに居続けなくてはいけない理由はどこにもないわけで。
劇団という集団を維持し続けるのは経済的な側面と合わせて厳しくなっていったのだろうと思う。
だからそれ以前の劇団の話を聞くといつだって羨ましくなってしまう。
まったく違う別々の人間が一つの演劇論に向かってひたむきに歩いているという姿にだ。
だからそんな時代ではないうちの連中が20年という時間を過ごしてきたのは奇跡だと思っている。
もちろん今だって皆が天邪鬼だ。
例えば、皆でこうしていこうぜ!って言ったって、俺、厭なんだけど?って人も普通に出てくる。
もう、そもそもそんな連中の集まりだし、そんなことを20年も繰り返してきたからどうってことない。
むしろ最初の10年は60人近い人数がいたわけで、その頃に比べればなんでもない。
大抵が、出た出た~!って笑い飛ばして終わらせてしまう。
そこで、そいつに同調しろと迫るようなことがどういうことか皆わかっているからだ。
うん、わかった、無理するな。で終わりだ。
もう集団論というものではなく、自立した一人一人が同じ目標に向かって集まっているだけだから。という形だ。
そんなドライなの?と言われそうだけれど、シンプルに一緒の舞台に立てば情が湧いてくる。
だからドライのようで全然ドライでもなくて泣きごとを聞いたり、笑ったりという経験が人を繋いでる。
高尚な部分なんかは殆どないと言っていいと思う。
あるのはただ舞台の上で目と目があったその瞬間の記憶と体感だけだ。
おかげさまで、自分も自由にやらせてもらってるんだと思う。
自分はどこに行ったって、どこか頭をこずかれてしまうような不格好な人間で。
もういい歳なのに、未だにしょっちゅう怒られたりもするような奴だ。
それがまあ、平然と走り回ってる。
まぁ、普通ならこうはいかないよなぁと思いながら。
なんせ自覚するほど自分も天邪鬼だし、皆が同じ方向を見るほど別の方を見たくなる。
それこそ一度、ヘソを曲げたらこれほど面倒な人間もいないよなぁといつも思う。
歩きながらいつも何かにぶつかっていて、擦り傷だらけになっているようなものだ。
それでも。
映画「セブンガールズ」を一人でも多くの人に観て欲しいという思いは、やっぱり皆、同じなのだと思う。
なぜ思うと書くかというと、同じ!と言い切ってしまえばそれも同調圧力になっちゃうからだ。
俺はそんなのどうでもいいけどね!って奴がいてもいいのだ。
まぁ、それでも、皆、やっぱり同じなんだろうなぁと感じ続けている。
それぞれのやり方、接し方、表し方、きっと違っているはずだけれど、同じはずだ。
実はそれだけでもすごいことなんだよなぁって思う。
もちろんルールのようなものはどうしたって必要だろうけれど。
それ以外の部分では、自由でいい。
自由には同時に責任も伴ってくるのだから、かえって厳しいかもしれないしさ。
だから例えばカウントダウンの企画でも全員参加!とかにしないようにしている。
それぞれ、皆でなんかやってねー!で終わり。
皆が自分で考えて、自分のやりたいようにカウントダウンすればいいし、しなくてもいいよと。
すごくない?
おいら、すげえなぁって思うんだよ。
そういうことを考えるたびに。
集団として何かを指令しているわけではないのに。
セブンガールズという映画を製作しちゃったんだもん。
映画製作なんて大変なこと、やりきっちゃうんだもん。
公開されてから今日まで、頑張ってるんだもん。
まぁ、結局のところ、仲が良いんだろうなぁとかは思うけどさ。
それにしたってすごくなあい?
すげえなぁと思いながら、同時にそのことを俯瞰で観て考えなくちゃなぁと思う。
なんというか、そういう意味では本当の意味でやさしい連中ばかりだ。
別に対応が優しいってことじゃないよ。
バカヤロー!って言葉の中にあるやさしさも含めてなんだけどさ。
感受性とかも高いし、なんというか不必要なものまで受信しちゃうような連中だ。
ある意味では強いけれど、実は弱い部分だってあるはずだよなって注意深く思ってる。
ただ大なり小なりきっと現代に生きている人たちは皆そういうところがあるはずで。
だからきっとセブンガールズを観たお客様には、そんな自分たちを観られているんだと考えようと思っている。
映画を観てもらいながら、作品を観てもらいながら。
同時にこの映画を創り上げた人たちとして見られているよって。
その時なんだ。
きっと。
今がその時。
問われているんだと思う。
今こそ、自分たちの今までの全てを。
まぁ結果が出るようなものではないけれどさ。
自分が演じた成瀬凛太朗って奴は好き勝手に生きてるし、テキトーな奴だけれど。
どこか生きづらそうな、苦しそうな、そんな風に見えてくればぁって思っていたのだけれど。
今思えばそんな風に役作りしていったのも現代に生きる人に観てもらうからなのかもしれないなぁ。
それは今、急に思ったことだけれど。
ゴリゴリに固まっていく思考を解きほぐす。
柔軟に、柔軟に。
自分たちが起こしたことは、やっぱり奇跡なんだ。
それを忘れちゃいけない。
そしてそれを自分の中でちゃんと形にして理解しないといけない。
セブンガールズはやっぱり絆の物語なのだ。