2019年02月25日

時を超える物語

これまで舞台で色々な時代を演じてきた。
徳川吉宗に始まり幕末や大正時代、昭和初期、80年代なんていうことも演じてきた。
そして終戦直後という時代を選んだ作品が「セブンガールズ」だった。
自分はその時代を演じることになったら徹底的にその時代について勉強をする。
色々な文献や映像や証言を探して目を通していく。

二二六事件の時はわかりづらい時代だったから毎日BLOGを上演まで書いたりもした。
実はこのBLOGは二二六事件について詳しくまとめたサイトで今でもアクセスが続いていたりする。
そのぐらい調べて、そのぐらい時代を自分の体に落としていかないと自分がまともに演じられない。
けれど実は自分の中で時代の空気さえつかんでしまえば細かい齟齬はそれほど問題にしていない。

この時代にこの看板があるのはおかしい・・・とかはすごく気になるのだけれど。
この時代にこんな髪型は、こんな言葉は・・・とかは別にどうでもいいんだよなぁと思ったりもする。
いわゆるリアリズムというやつは、結局真似事でしかないし、本質には迫れないと感じている。
空気感の中にあるもの、時代の中で生まれた人間のもつ身体性。
それさえあればリアリティの確保が充分に出来るからなぁと思っている。

何故かと言えばそもそも演劇がそういうものだからだったりする。
今は写真や動画が残っているから時代が近いほどそのリアルを追及してしまうけれど。
そんなことは本当に大事なのだろうか?と思う。
ドキュメンタリーであるとか、当時の資料を残すだとか、それはもちろん必要な仕事なんだと思っているけれど。
こと物語の世界では、そこに拘り過ぎることは実は色々なことの足を引っ張りかねないと思う。
昔は写真も動画もなかったし、それどころか識字率が今のように高くはなかった。
文字が読めない人が歴史を学ぶとしたら、それは劇場や歌しかなかった。
そして面白い物語だけが残って、面白くない物語はそのほとんどが消え去っていった。
それは同時に歴史が消えていくことと同義だったと思う。

日本最古の本は古事記だとか日本書紀だとか言うけれど、それを読めた人なんか限られていた。
神話の世界は全て物語として琵琶法師や浄瑠璃や歌舞伎が伝えていった。
それは別に日本だけじゃなくて例えばギリシャ悲劇がある。
ほとんど文献もなく、芸人から芸人に受け継がれてきた吟遊詩人の語るギリシャ悲劇。
当然神話だと思われていたのだけれど、トロイヤ遺跡が発掘されて真実の歴史だったとわかった。
歴史を文献として詳細に残す仕事は学者の仕事だとして。
物語が担っている仕事はもっと別のもので、本質だけを残して語り継がれるような面白いものを創ることだ。
手毬歌や物語が実は歴史の真実だったなんて言う例はトロイの木馬だけじゃなくて世界中に溢れている。
それともう一つ歴史を残す可能性があるとしたら宗教だけだ。

東日本大震災でも似たようなことがあった。
津波で高台まで避難したら、そこにここまで波が来たという石碑が建っていたのだという。
あんな大きな地震は数百年というスパンでしか起きないわけで。
数百年後の誰かに震災の危険性を伝えるのはそれぐらい難しいという事なのだと思う。
100年ぐらいならきっと親から子へ、子から孫へと伝わったかもしれないけれど。
そこから少しずつ震災の話は消えてなくなってしまったのだろう。

物語はそれを簡単に飛び越える力がある。
竹取物語だって、桃太郎だって、金太郎だって、語り継がれる。
小難しい歴史の話ではなくて、子供がワクワクするような物語だからこそだ。
物語や音楽はそういう宿命を背負っているのだと思った方が良いと思う。
面白ければ何百年だって残る。
本質や本題をその中に組み込むことだって出来る。
ドキュメンタリーでも、記録映画でもないのなら、まず娯楽として成立しているかどうかじゃないだろうか。
忠臣蔵という物語が残した当時の時代についての研究資料がどれだけ多いことか。
面白い物語が残って、後から学者が物語から歴史を紐解くという事は今までも繰り返されたことだから。
ディフォルメは悪いことじゃない。
消えてなくなる歴史があるのだとすれば、それは物語がなかったからだ。

・・・事実数千年前の歴史を誰も知らないのだから。
ピラミッドに刻まれた象形文字は未だに完全に解読されていないのだ。
クレオパトラの話は残っているのに。

もちろんディティールは大事だ。
時代感に拘れば拘るほどそこに魂が生まれるから。
けれど優先順位をそこに持っていってはいけない。
例えば当時こんな服が流行していたという情報があっても、それが伝わらないなら一般的な服で良い。
わざわざ流行していた柄を選んで結果的に物語的にわかりづらくなるなら本末転倒になる。

監督も物凄い量の資料に目を通す。
そうしないと筆が進まないのだという。
そのわりには、時代を無視するようなコメディが入ったりもする。
自分の中ではそういうのを手塚治虫イズムだと思っていたりするのだけれど。
監督が手塚先生をどう思っているかはあまり聞いたこともない。
手塚先生は少年漫画で歴史を面白い物語に変換して伝え続けていたからさ。
卑弥呼の時代に英語のセリフだって、面白ければ書いていた。

自分たちはこれを「芝居の嘘」と呼んでいる。
役者の演技に嘘はあっちゃいけない。
けれどその場合の嘘とは、役者の中の必然性のようなものを差している。
けれど芝居をしていれば別の感覚も持つ。
外連味とか、ハレとか、見栄を切るとか、そういう部分だ。
役者の中の必然性はそのままに、芝居の嘘を成立させる。
ありえなさそうだけれど、そういうことが出来るのが芝居だし、奥の深い所だと思っている。
ナチュラルだったり、本当っぽい芝居だったりは、まだ芝居の世界では序の口に過ぎない。

セブンガールズにも当然芝居の嘘があちこちにある。
けれどそれは、やっちゃってるわけではない。
自分の知る限り、全て、あえてそうしている。
終戦直後にパンパンと呼ばれた娼婦がいたことを知らない人も今は増えたはずだ。
祖父祖母ですら終戦時に生まれたばかりだったりするのだから。
そんな時、何かを伝えるのであれば、物語は大きな大きな意味を持つ。
文献は調べたい人だけが調べればいいけれど。
物語はそのキッカケになったり、ただ知るということに貢献できる。
そのために強烈に物語を編んである。
同時に流れているエピソードは7本もあるのだ。
物語として、まず次に何が起きるかわからないような面白さを追求していたはずだ。
それが成功しているのかいないのかは、監督の計算と、お客様の感想の中にしかないけれど。

セブンガールズは歴史の教科書ではなくて。
セブンガールズは楽しめる、終戦の時代を背景とした物語になっていることは間違いない。

だからいつも、楽しんで欲しいなぁと声に出してつぶやいてしまうのだろうなぁ。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 03:30| Comment(0) | 映画公開中 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする