カウントダウンは公式では今回はなしにしようと思いつつ。
蔵出しで「歌ってみた」のアップロードを続ける。
撮影済みの素材を暖かく暖かく温存してもあまり意味はないかと。
どんどん上げていけば、明日は誰だろう?と思うはずで。
とは言え、名古屋に向かう深夜バスに乗った日とかはどうしようか?
そんなことを考えつつ。
いずれ起きるだろうなぁというニュースが最近世間を騒がせた。
教師を煽って暴力をふるわせ、それを動画撮影してSNSで拡散して、問題にする。
始めはひどい暴力教師だ!と騒がれていたはずの映像には前後があって。
おちょくって、怒らせて、わざと殴らせて、最初から炎上するために撮影していた。
その一部始終が明らかになってしまって、今度は生徒側が炎上するという。
こんなことは許せない!と大騒ぎになっているけれど。
こんなことはずっと起きていた事なんだろうなぁと自分は思う。
彼らにとって、SNSは子供の頃から存在するものなのだから。
炎上することまで計算して動画を撮影するなんて言う事はずっと行われていたはずだ。
殴った教師も悪いし、教師をおちょくった生徒も悪い。
両方に処罰があるべきなんだろうなぁ。
ただ、それよりも何よりも、教育委員会がついていけていないんだろうなぁと思う。
圧倒的に子供たちの方がネットリテラシーが高い。
SNSによるいじめの実態など、間違いなく正確に掴めていないはずだ。
デジタルで動画を撮影出来て、それをネットで公開できる時代という感覚なんかあるわけがない。
ここ最近は、例えば、ドライブレコーダーに映った迷惑運転の公開なども多い。
あれだって、その前にあおっていたとしても編集出来てしまう。
ナンバーや、個人を特定できる顔まで、簡単に動画がアップされる。
コンビニでのクレーマーの問題。
お店が万引き常習者の顔の写った写真や動画を公開する問題。
そういうものに対応しきれていない。
その流れの一つでもあると思う。
面白いなぁと思っているのは、物語の世界ではむしろ逆のことが起きていることだ。
ここ最近「学級会モノ」の作品が、あちこちで見受けられる。
少年漫画でもあるし、自主映画でもあるし、今度新しく封切になる映画もそれに近い。
今季一番話題になっているドラマも、学級会モノだ。
それぞれテーマも違うし、作品構成だって、撮影方法だって、全然違うのだけれど。
ただ、教室のような場所で、それまで仮面をかぶっていた生徒が生徒同士で意見を交わしていく。
そして、やがて、本音でぶつかりあっていくという物語構成の作品の事だ。
「命」がテーマであったり、「アイデンティティ」がテーマであったり。
いずれにせよ、青春時代に誰もがぶつかる目の前の問題を本音でディスカッションする形式だ。
これをなるべくリアリティを伴う形で、成立させていく。
ドキュメンタリーに近かったり、感情が高ぶるようなエピソードを並べたり。
あらゆる形でリアリティを形成して、そのディスカッションをそのまま作品にする。
たくさんの登場人物がいるから、自分がそこにいたら・・という感覚も持ちやすい。
ディスカッションものは、それこそ演劇なら「十二人の怒れる男たち」など歴史は実は古いのだけれど。
つまり、嘘で塗り固められた映像をSNSで拡散するような動きと。
少しずつディスカッションを重ねながら本音に迫っていく物語が作られることと。
この二つは実は表と裏の関係でリンクしているような気がしている。
そこにある悪意やテーマを全て抜き取って比較して、創作とは何か?に迫れることなんじゃないだろうか。
嘘のような本当、本当のような嘘。
映像だけが出来るリアリティ。
明らかにどちらも時代に要請されて、産まれて来た映像なんじゃないかと思う。
本物が求められてる。
例えば女優が見せる涙をみても、そこまでなんとも思わない時代なのだと思う。
そのぐらいは当たり前なんだろう?と思われているし、自分で撮影した動画のもつリアルを知っている。
こんなの嘘泣きじゃん?という前提を持って、作品を観ているんじゃないだろうか?
だから本当らしい盗撮や、本物っぽい作品を観れば、全て「やべえ」という言葉が出てくる。
彼らにとっての「やばい」が誉め言葉なのか、その逆なのかわからないという大人たちがいるけれど。
彼らが口にする「やばい」とはそのまま「本物だ」という意味なのだと思う。
もっと言えば「実感を伴うことが出来る」という意味なのだと思う。
おかしな人を見て「あれ本物だぞ」というのは昔から使っていた言葉だし。
素晴らしい作品を観て「本物だ!」というのも昔から使っていたはずで。
「本物」に誉め言葉も、その逆もないということなんじゃないだろうか。
ちょっと前までは、ナチュラルな演技が出来てすごい!なんてよく聞いたものだけれど。
最近では、ナチュラルっぽい演技だよね、なんて揶揄まで耳にするようになった。
リアルは更に、厳しい目で見られている。
そして「やばい」「本物」が、暴走しかねないような空気さえ持ってる。
こんな時代に自分たちに出来ることって何だろう?と考える。
きどって、格好をつけても、すぐに底を見られてしまうのだから。
セブンガールズの時代は、嘘が入り込むことが出来ない厳しい時代だった。
その時代の作品は「今」にどんなふうに受け入れられるだろう?
泥まみれになって、もがいて、もがいて、それでも生きることが出来なかった人がいた時代だ。
赤っ恥と言われてもいい。
もっともっと、裸になって。
自分を晒していかないとと思う。
このBLOGにも嘘が入り込まないように。
泣くなら、泣くんじゃなくて、泣ける時だけだ。
名古屋まであと二日。
やばい。
色々な意味でやばい作品でありたい。
やばい連中で良い。
きっと東海地方の誰かもセブンガールズの中に「本当」を見つけてくださるはずだ。