20日間渋谷に通い続けたから、その間、外食の機会が増えた。
自分は外食の場合どんな店でも必ず「ごちそうさまでした」と伝えることにしている。
喫茶店やファミリーレストランでは難しいけれど、そこに厨房があれば必ずしている。
笑顔で「ありがとうございました!」と返ってくる場合もあるし、奥から「どうも!」だけ聞こえる場合もある。
ただ多くのチェーン店では、あまりちゃんとは返してくれないケースも多い。
「あしたー」と特に顔も見ないで、声が聞こえてくるなんてことはよくあることだ。
でも、別にお礼を言われたくて言っているわけじゃないから、怒ることもないし、気分が悪くなることもない。
むしろ、それが普通かもなと思っているし、多くのチェーン店ではアルバイトだったりするのもわかっている。
だから立ち食い蕎麦のおばちゃんから笑顔で挨拶してもらうだけで、やけに嬉しくなることもある。
自分が10代ぐらいの頃からだろうか?
世の中の核家族化や都市のドーナツ化が進んだ時期から都市における人と人とのコミュニケーションは希薄になった。
そういう現代を生きてきた自分にとって、それを悪いことだなんて思ったことは実はない。
例えば電車の中で窓の外を見ようと椅子に後ろ向きで自分が膝立ちになれば、昔は知らない人に注意された。
靴ぐらい脱ぎなさいと、きちんと大人から言われたし、子供が大人の足を踏めば、謝りなさいと言われた。
今は問題になるかもしれないから相手にもしないし、親だって放置しているケースが多い。
自分もそうしているし、恐らくはそれが現代なのだと思う。
他人に必要以上に干渉することも、されることも、自分の肉体も精神も想像以上に拒絶する。
つまり現代を生きている以上、人は自然に現代性を持った肉体・精神になっていく。
そして、現代を生きている以上、現代を描こうと思えば、そこから逃れることは出来ない。
今年の最終クールで「獣になれない私たち」というドラマが生まれたのは、当然のことだと思う。
そのドラマだけではないけれど、人と人との関係性は変容し続けていて、物語にはそのまま反映される。
現代において「金八先生」は成立しないし「男はつらいよ」も厳しいものがある。
ただし時々、そういうことをちゃんと意識していない人の言葉を読むとやれやれと思うことがある。
例えば昔のドラマはリアルじゃない!わざとらしい!なんて言葉を目にすると溜息が出る。
先述した「金八先生」も「男はつらいよ」も、ハッキリ言えば今の映画よりも実はずっとリアルだ。
リアルじゃなくなったのは時代性であって、その時代の役者はその時代のリアルをきちんと探している。
「仁義なき戦い」は撮影方法のリアルを評価されたりするけれど、演技のリアルもものすごいものがある。
あんなふうにかっこつける人というのが、実際に自分が少年の頃にはまだまだいたからよくわかる。
熱く叫ぶことにリアルがあった時代と、クールに突き放すことにリアルがある時代では芝居が変わるだけだ。
ツッパリを描くこと自体がコメディになった時代では、理解不能かもしれない。
逆を言えば時代劇がヘタクソな役者も、現代性を持っていると評価される。
現代劇ですごいリアルだから、存在感が際立っていく。
時代劇の中にいても、現代の人が観たらリアルを感じる場合だってある。
そういうところが演技の評価の難しさなのだと思う。
ただし、日常しか出来ないのであれば、自分は余り評価しないようにしている。
非日常にリアルを構築できないのであれば、そもそも物語を担う力がないと思うからだ。
低予算映画というのは、別にセブンガールズだけではなくてどんどん増えている。
一般的に低予算映画と呼ばれる映画よりもセブンガールズは圧倒的に低いけれど。
デジタル機材が増えたことで予算を抑えることが出来ているし、アウトプットする場もネットなど増えている。
大きな予算で大きな赤字を抱えるケースを思えば、足回りも良くなっている。
増えていけば、当然、低予算映画のメソッドみたいなものも出来てくる。
基本的に現代劇、基本的にメインとなるロケ地はセットではなくて、例えば一つの部屋にするなど。
とにかく今あるものを背景として映画を製作していく。
そして登場人物をなるべく絞ることで出演費もスケジュールも確保できるようにする。
地方都市や海外との協力を頂いて製作していく等々。
結果的に似たような作品になりやすいから、そこでアイデアを練る。
作品の角度であったり、テーマの斬新さであったり、出演者の妙味であったり。
エキセントリックにしたり、エロスであったり、私小説に近い作品にしたり。
現代劇でアパートの一室、男女の物語というのはとっても多いはずだ。
それだけの縛りの中でオリジナリティを維持するのだとすれば、それはすごい高いレベルの制作になってくる。
優秀な監督、独自色の強い監督が今日も生まれ続ける土壌になっている。
セブンガールズはその縛りそのものを最初から放棄している。
そんなことをしようとしたから、たくさん無理だという言葉を頂いたけれど。
それでも、その無理を承知で映画製作に挑んだ。
セットも製作するし登場人物も膨大だし、そもそも時代劇だ。
低予算映画の中では異例の作品になっているはずだ。
作品そのものが既にオリジナリティの宝庫になっている。
この予算でこんな映画を創ることが出来ることはもう奇跡に近い。
別のアプローチで、低予算という縛りに挑んでいる。
だから、そこをもっと注目されるだろうと思っていた。
けれど想像よりもずっと注目されている箇所はそこではなかった。
時代劇だけが持つ、時代性のある人間の距離感、関係性を口にする方が圧倒的に多い。
これは逆に低予算であることを意識させないレベルまで作り込めたということなのかもしれないけれど。
あの時代のリアルを成立させていることこそ、確かに一番大変なことなのかもしれない。
人と人との距離感が「ごちそうさまでした」一言でもここまで変わった現代において、雑魚寝の世界を見せている。
その時代に生きている人に見えるかどうかという事が実は一番大変なことだったはずで。
役者は現代性を持った肉体と精神を持っているから、そこを切り離せるかどうかは重要な課題だった。
ドライになってきた人間関係の現代を生きるお客様が、その時代を観ることがここまで評価の対象になった。
この現代性と、物語の持つ時代性が、これからの本当の鍵になると自分の中で思っている。
このギャップは見事に現代を照射している。
現代を生きる人にとって隣の人に感じる感覚、世界観さえ、セブンガールズは光を当てている。
人と人との距離感の近さに、戸惑うお客様だってきっと増えていく。
このBLOGは前日のことを0時過ぎてから書き続けているからこれは2018年最後のエントリーだ。
3年前の年末はクラウドファンディングの真っ最中だった。企画者だった。
2年前の年末は編集の真っ最中だった。編集者だった。
去年の年末は、海外に挑戦した後、公開に向かって動き始めた頃だった。
そして今、公開してこれからのプロモーションまで含めてこんなことを考えている。
まるでカメレオンのように、どんどん自分のやることを、自分の色を変化させながら進んでいる。
今は、「展開」について考える時だ。
最後のエントリーだから。
セブンガールズという作品が持つ最大の武器について、冷静に冷静に自分の中で整理した。
年が明ければ、それを今度はもっともっと強く展開していくことを考えなくちゃいけない。
今、吹いている風をどうキャッチして、どう乗っていくか。
いや、自分でもどんな風を産み出すことが出来るのか。
もちろん作品が持つ最大な武器なだけだ。
本当に心強い最大の力はそこにはない。
まるであの時代の人たちのごとく。
この映画を支えてくださる人達の愛情こそ、何よりも大事な力だ。
「自分のとってのセブンガールズ」という場所に立ってくださっている。
そして、その愛情が、拡がり続けている。
「ごちそうさまでした」という言葉が空振りする時代に。
映画「セブンガールズ」に拍手を送ってくださる方々がいる。
スクリーンの中にある体温を感じる時代を観て。
そこに、人間の持つ暖かさを見つけてくださる方々がいる。
きっとそれが根本だ。
映画の持つ力。
応援してくださる方の持つ暖かさ。
そして自分たちのこれから。
その奇跡を展開させるのが、新しい年の自分の目標だ。