2018年11月12日

現代の物語

かっこつけているなぁと感じると厭になる癖がある。
なんというか、取り澄まして、体裁を整えているように感じるからだ。
それはそんなに面白くはないぜって思っている。
つっぱらかるのは良い。
というか、男の子はつっぱらかってないとだめだ。
かっこつけているのと、つっぱらかっているの、違いが分からなかったら芝居なんかしない方が良い。

なんでもかんでも平等にするべきだ。とか。
なんでもかんでもそこにある差を考える・・・みたいな優等生な意見が多い世の中だ。
はみだしているものは認めないか、もしくは、はみだしているものをも平等に扱う世の中であるべきだか。
そんな優等生発言はたくさんある。
そして、そのどれもが正論で、付け入る隙がないぐらい正しい。

確かに行政であるとか、制度であるとか、法整備は必要だ。
全てが平等になることは難しいけれど、いつだって公平を目指すべきなのは確かだ。
けれど、そんなわかりきったことを声高々に、表現するというのは何か違和感がある。
嫌いな奴がいるのが人間ぽいじゃないか。
好きな奴と同じぐらい、むかついたっていいじゃないか。
そういう凸凹があるのが当たり前で、そこに権利の差別があるかないかは、制度の問題で。
個人的な感覚は、感覚として、あるものなのだから。

どれだけそういう正しい場所を創ろうとしたって、それだけじゃ対応できない。
これから本当に大事になってくるのは、そういう意識だよ!なんて、堂々と言うなんて赤面してしまう。
そんなメッセージのある演劇も腐るほど見てきたけれど、何も生みださない。
お客様が、すごく考えました!なんて感想を書いて、それを読んで満足して。
それで、おしまいだ。
皆がそういう意識になったら世の中が変わるなんて、そんなことを口にする。
違うんじゃねぇかなぁ。
そういうもんじゃねぇんじゃねぇかなぁ?
色々な奴がいるから、面白いんだから。
全員がお前の作品を観るわけじゃないぜ?

今、例えば高齢化社会にしたって。
本当に大事なことは、そんなことじゃない。
小さなコミュニティ内における相互互助だと思うよ。
隣にいる人が手を取り合って助け合っていく世の中。
そこには善意とかだけじゃなくて、生き方みたいなものも含まれてる。
高齢化社会に向けて、今、急速に法整備が整っていって、様々な老健であったり、介護施設が増えている。
それはそれ、これはこれ。
そういう法整備や制度だけでは、実は対応なんか出来っこない。
個人個人が意識を高く持つ?そんなことでは、何百年経っても、解決しないことがある。
どの距離感で喋ってるんだろう?と思う。生活感がないような主張ばかり。
そうじゃなくて、例えば介護施設の中における小さなコミュニティ内の人間関係。
それこそ、生活に根差した、今、考えることなんじゃないだろうか?
だってさ、老人ホームの中で友達がいる老人と、そうじゃない老人と。
どれだけ施設が整備されていたって、幸せなのはどっちなのか、すぐにわかるじゃない。
そして、それを善意で皆が・・なんて優等生的な話をしちゃうのは、駄目なんだと思う。
もっと、自分の人生で考えれば・・・っていう生き方に根差した相互関係を創っていかないと。

貧富の差にしたって、性差別にしたって、LGBTにしたって、なんだって良いけれど。
大きすぎる話じゃなくて、隣にいる人間が、隣にいる人間に、自分の生き方としてどう手を繋げるのか?
たったそれだけが、大事なことなんじゃないのかって思う。
そして、多分、映画だとか演劇だとか、小説だとか。
物語は、問題意識を起こさせることよりも、お前はどうやって生きていく?という問いだけあればいいと思っている。
プロパガンダみたいな物語は懲り懲りだ。
結局、自分のリテラシーみたいなものを、かっこつけて、見せているだけなんじゃないかって思ってしまう。

昔、自分が住んでいたアパートのそばの中華料理屋の老夫婦は、いつ行っても喧嘩していた。
まぁ、聞くに堪えないような罵詈雑言を平然とお互いが口にしていた。
人が見たら仲が悪いし、心配してしまうような関係かもしれないけれど。
その店に通ううちに、いや、この二人はどの夫婦よりも仲が良いんだなぁと解った。
この二人に、そういう言葉遣いは良くないよ!なんていうような野暮はない。
何故なら、二人には二人だけのルールがきっとあって、お互いがお互いを心で支えているからだ。
多分、いきなり店に入ってもわからないけれど。
それをわかりやすい愛の形として、見せることが出来るのが物語なのだと思うよ。

セブンガールズは、娼婦たちの物語だ。
世間から白い目で見られて、パンパンと蔑称で呼ばれた女たちだ。
その女たちが、小さなバラックの中で、手に手を取り合って生きている。
まぁ、喧嘩もするし、なれなれしいのを嫌っている女もいるし、甘えん坊もいる。
でも、血も繋がっていないし、一生一緒にいるわけじゃないし、仕事仲間なだけだ。
でもさ。助け合う。お互いをどこかで思っている。
それは、なんかルールでじゃないと思う。
一人一人の登場人物の生き方として、自分に恥じない選択をしているだけなのだと思う。
良心とは別の部分で、でも、お互いを心配している。
「やさしい」ってこういうことじゃないかなぁ。って何度も思う。
かっこわるいから、かっこつけようがない。
全員が、つっぱらかって、生きてる。
たった、それだけの映画なのかもしれない。

でも。
きっと。
これからの時代を生きていく自分たちにとって。
大事な宝物にだってなるぜって思っている。
かっちょいい市民意識なんかの何千倍もの宝物だ。
不平等な社会の中でも、人は人と繋がってきたんだ。
制度ばっか整備したって、絶対にそれだけじゃ、何も解決しないんだぜ。

セブンガールズに描かれている女たちは、現代における天使たちだ。
生きることに必死なだけなのに、なぜこんなに美しいのか。
多分、現代が抱えている病理の半分は、天使たちが解決してくれるとさえ思っている。


「俺はさあ」とか「私はさあ」とか。
自分のことを口にする時の、その俺や私とは誰なんだろうか?
人から見た自分像のこと?
自分の中で思っている理想的な自分像のこと?
それとも、もっと本質的で、本能的な、自分ではコントロールできない自分のこと?
女たちはその答えを持っている。
たくさんの悲しい事、戦争、全てを乗り越えて、今を生きている女たちは知っている。

やっぱりセブンガールズは現代の物語だ。
終戦直後を舞台にした、現代の物語。
今、現在、誰だって問われている。
お前はどうやって生きていくんだよ?と。
現代を生きる全ての人に送る物語だ。

心が震えるのは、そういう理由だとしか思えない。
頭で観ることが出来ない。脳味噌で理解しようとすることは野暮。
ただただ、心を動かすだけ。
そういう作品なのだと思っている。

「やさしい」ってそういうことなんじゃないだろうか?
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 08:21| Comment(0) | 映画公開中 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年11月11日

着々と準備をしている、チャクチャク

名古屋に向けて皆で少しずつ考えている。
どうやったら、名古屋が大成功だったね!というふうになるのか。
自分たちでやれることを。
公式Twitterに、名古屋在住の映画ファンの方からのフォローなどもあった。
今はまだじっくりと、やっていくしかない。

同時進行で、名古屋だけではなくて、上映機会が増えないか模索している。
決して簡単なことじゃないけれど、何もしないわけにもいかないから。
もちろん、その為に出来ることなんか数えるほどしかない。
配給で頑張ってくださっているのは間違いないのだから。
けれど、ただ待っているだけというわけにもいかない。
どういう方法が一番いいのかもわからないけれど。
自分たちで直接映画館に営業してしまうという方法もあるのかとも考えるけれど。
それは、やっぱり配給と宣伝では別なんだと考えれば簡単に手を出せない。
そういう意味ではお客様が映画館に連絡してくれているという書き込みを観るたびに、ああ!と思う。
自分たちでは出来ないけれど、お客様はリクエストできるという、不思議な感じ。
出来ないことをしてくださるのは、もう、感謝という他はない。

次の上映館の決定に結びつくようなカンフル剤がないか。
そんなことを考えたりしている。

今、都内での再上映が決定したら。
きっと、上映館に喜んでもらえると思っている。
舞台公演後に、映画を観たいと言ってくださる人がいらっしゃる。
もう、都内再上映を心待ちにしてくださっていることがひしひしと伝わってくる。
見逃してしまった方からもアクセスが続いている。
今までのお客様の反応を考えても、きっと、もっと拡がっていくのは間違いないと思う。
舞台の累計の動員数を考えても、まだまだこれからなのだから。
けれど、映画館が上映を決定しないという事はそれがわからないということだ。見えないという事だ。
今、セブンガールズを上映したら、面白いぞ!と、そこが伝わっていないという事なんじゃないだろうか。

実際に、大ヒットを記録したカメラを止めるな!だって、半年以上かかっている。
2017年11月にK'sシネマでの限定一週間上映を連日満員を記録して、たくさんの人が面白いと口にしていたのに。
再上映は翌年の6月まで待つことになった。
上映が始まってから噂が噂を呼んで、満員を記録するや、連日満員記録を伸ばしていった。
7か月強もの期間、上映できる会場を探していたのか、あえて仕切りなおしたのかはわからない。
それでも、一番館になりたかった映画館は、今思えばたくさんあるんじゃないだろうか?
そんな結果が予想出来ればなんの苦労もしないのだとしても。
それぐらい隙間がないのかもしれない。

セブンガールズの一番館のK'sシネマの上映スケジュールも、よく確認するけれど。
来年の初頭までびっしりとスケジュールが埋まっている。
もう年末年始の夜しか枠は空いていないし、その枠もきっと検討中の作品があるだろう。
他の映画館はそこまで先のスケジュールは基本的に発表していないけれど。
おおよその枠はもう埋まっていると思う。

名古屋が終わるまでに、方針が決まるといいなぁとは思う。
同時進行で上映館を探したり、セブンガールズという作品の持つ魅力を拡げつつ。
もちろん、朗報も待ちながら。
そして、名古屋でも素晴らしい上映の日々を迎えるのを大前提として。

だって、まだ出会っていない人がいるのだ。
そして、出会った人が勧めてくださっているのだ。
遠方からでも名古屋に行きたいと言ってくださっている方がいるのだ。
セブンガールズはまだまだ出会わなくてはいけないのに、出会っていない人がたくさんいる。

強くあらねばならない。
もう使命感にも似たような感覚。
敗れることはない。
いや、敗れることを怖がることはない。
大丈夫なのだ。
へこたれそうにもなるけれど。
なぁに、負けることなんか日常だ。
だから、怖いものもないし、どおってことがない。
そして、知っている。
必ずやってくるその瞬間を知っている。
ずっとそうやってきたから。

今日までの3年間以上もの間。
ただただ、セブンガールズという映画を前に進めるためにやってきた。
その日々に嘘はない。
今日までそうだったのだから。
明日が来ないわけがないのだ。

どんと来いだ!

一つね。
良さそうな話があって、それが良い所まで行った。
完全にダメになったわけじゃないんだけれど、とりあえず良い所で止まっている。
上映館のことじゃないんだけれど。
でも、それも、そこまで行けるという事は。
あと一つ。
あと一つあれば、更に前に進めるって言う事だ。
可能性はまだまだ無限にあるってことだ。
あまり詳細にここには書けないけれど、書けない戦いが毎日続いているよ。
おいら、頑張るさ。
下を向かないでさ。

さあ。
もっともっとだ。
考えろ。
足を動かせ。
広がれ、拡がっていけ!
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 04:49| Comment(0) | 映画公開中 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年11月10日

ここから先は心の問題

多分、皆、気付いている。
ここから先は、心の問題だと。

例えば、差別の問題。貧富格差の問題。性の問題。科学技術発展の問題。
やっぱり人間は間違いなく進歩し続けている。
かつては、王様がいて市民がいて、身分差別がハッキリと会ったのだから。
今、封建社会なんて国際的に見たってわずかになってきている。
様々な出口が見えないような問題も、地道に一歩一歩、解決していっている。

けれど、そこでふと気付く。
心の問題はどうしようかと。

例えば身分差別の問題は有れど。
主君のために命を賭した武者が、自分の人生に悔いはないと思っていた時に。
身分差別のない今を生きる自分たちは彼よりも幸せか?人生に悔いはないのか?と問うてしまう。
明らかに身分というものがなくなった現代の方が社会としては成熟しているのに。
個人の心の問題は、別の次元にある。
そして、現代に生きていたって、主君のために生きる武者の美しさを理解することが出来る。
平等な社会が正しいのは間違いないはずなのに、自分の人生に置き換えると途端に足元がおぼつかない。

不世出の天才ホーキング博士の未来予測では、A.I.がやがて人類を支配するという。
あれほどの人が口にすると、説得力があって、冷や冷やとする。
人間の知能だって、進歩し続けているし、進化だってしているけれど。
人工知能の進化スピードは、比較にならないスピードで、猛烈に進化し続けている。
やがて、人類の叡智を凌駕して、人工知能が人間を越えてしまうのは時間の問題なのは間違いない。
そして、その時に、人類がどういう形かはわからないとしても支配されるという。
まるっきり、ターミネーターの世界だけれど、ある部分では間違いないのだろうなぁとも思う。
けれど、一つ。
心の問題について、ちゃんと教えて欲しいと思う。

人工知能は怒ることも、悲しむことも、寂しいということも、悲しいという気持ちも、まだ持てない。
恐らく理解はしている。
それがどんなものであるのか、或いは生理学的になぜ感情が必要なのか。
そこまでの分析は、既にしているのだと思う。
だからこそ、人工知能とチャットすれば、人間が慰められてしまうようなことが起きる。
じゃぁ、人工知能も感情を持っているのかと想像すれば、それは違う。
からかって、怒ることがあったとしても、それはそういう反応をするようにプログラムされているだけだ。
もっとずっと根源的な感情の泉のようなものを、有しているとは思えない。
感情があるから人間は不完全なのだと、SF小説の中の人工知能は必ず答えを出す。
確かにそうかもしれないけれど、完全はつまりゴールで終わりなのだから、それでいいじゃないかとも思う。

だから人工知能の開発でも最終的には心の問題にたどりつくんじゃないかと思う。
何かを観て美しいと思ったり、良心があったり、楽しいと感じたり。
そういう感情を獲得を果たしてプログラムで出来るのだろうか?
もしかしたら、感情を持った瞬間に、人工知能は自らプログラムの停止を選ぶかもしれない。
そう考えると、ホーキンス博士の説は、天才だからこそ、見逃していることがあるような気がしてくる。
いつだって、最後にやってくるはずだ。
心の問題は。

日本はかつて、士農工商という身分差別がある国だった。
明治維新後だって、貴族や華族が存在していたし、自由民権運動を繰り返した。
戦後になって、ようやく様々な差別がなくなっていったけれど。
今でも、性差別や、ハラスメントの問題など、次々に浮上しては法整備され続けている。
今は誰だって自由に夢を持てるし、夢を持てばその道はいくつも存在している。
家業を継がなくちゃいけない事もないし、好きな相手と結婚する障害だってない。
だというのに、社会を見渡してみれば。

ほら、心の問題が溢れかえっている。
部屋から出てこなくなった少女がいる。
ナイフをポケットに忍ばせている少年がいる。
二次元の世界に埋もれたまま、体温のある人間と接することが出来なくなっている女がいる。
話すだけで緊張してしまい、恋愛を諦める男がいる。
成熟したはずの世の中で。
もっとも人数が多いのは、もっとも生きづらかったはずの、終戦直後に生まれた団塊世代。
最後の最後に、どんなに法整備しても、どんなに成熟しても、どんなに自由を獲得しても、心の問題がやってくる。
メンタルヘルスに通うことが日常になるほどに。
日本より貧しい国で、こんなにメンタルヘルスに通う国があるだろうか?
アメリカから何かがあるたびにカウンセラーの必要性を教えてもらうけれど。
そんなもの、かつてはいなかったはずなのに。

普遍的な問題だからって?
確かにそうだ。
宗教だって哲学だって、古来からずっと続いている。
社会が変われば、それに応じた心の問題が増え続けていくのもわかってる。
けれど、社会に問題があった時代と、今とは大きく違う。
日本に生まれたことは幸せなはずだ。
飢饉や内戦、貧困に苦しむ国の映像を観るとそう思う。
贅沢廟なんて簡単にかたずけちゃいけない。
ここから先は心の問題が残る。
それは、やっぱり、真実なんじゃないだろうか?

今、哲学がない。
哲学は科学と相性が悪いよ。

だから映画がある。
だから音楽がある。
だから絵画があるし、演劇がある。
物語が生まれて、芸術が生まれて、娯楽が生まれる。
心が動くものが生まれる。
人工知能が分析できないものが生まれていく。
必要不可欠なものとして。

感動したい。
心で感じて、心が動く。
それが全てではないけれど、それが全てだ。
自由を獲得するだけじゃ不完全だ。
心を満たさなければ、何もないのと同じだから。

動き始めた心は、繋がっていく。
誰かの夢になって、誰かの生活になって、誰かの一歩になっていく。
もしかしたら、その後、また誰かに繋げていくことだってある。
これは、心の進歩だ。

多分、皆、気付いてる。
ここから先は、心の問題だと。

自由の中で。
どこか生きづらいとか、苦しいと感じている人がいるのなら。
ほんのすこしだけ、ひっかかりを感じている人がいるのなら。
セブンガールズを届けたい。
絶対にただで帰さないから。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 09:57| Comment(0) | 映画公開中 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする