舞台の台本が監督から届く。
もちろん、ここから修正が必要だけれど。
いつもの形式にして、印刷する担当に必要なページを出力して転送する。
公開後に監督に台本を書いてもらうのは酷だと思っていた。
改修が必要とは言え、安堵する。
それぞれのカウントダウンがクライマックスを迎えた。
10から見ていくと、ストーリー性すらある。
何人もの出演者が、写真の加工方法を調べたり、アイデアを練った。
こんな宣伝方法の映画なんて、過去にあったのかなぁ。
Instagramに、皆で宣伝していることが好きです!とコメントがあった。
そう、この映画のキーワードは「みんな」だ。
今という時代と、終戦直後という時代。
まるっきり違う時代と言えば、その通りだ。
ただ実は通じているものがあるんだよなぁと思っている。
あれほどの酷い時代と何がどうしたら今の平和な時代がリンクするのか?
そんなのはめちゃくちゃだと言われかねない暴論かもしれない。
けれど、どうしても、近いなぁと思う所がある。
それは、境界線が曖昧になっていることだ。
良い人と悪い人の境界線がいつの間にかなくなっている。
メジャーとマイナーの境界線も、カルチャーとサブカルの境界線も。
マイノリティとマジョリティの差なんか消えてしまった。
男と女の境界線も。ひょっとしたら夢と現実の境界線も。
インターネットが始まってからは、それが更に加速している。
誰もが発信できる状態になった今。
かつて手の届かなかったスターは、会いに行くことが出来るようになった。
終戦直後にそれまでの価値観を徹底的に破壊された状況と似ている。
それまでのルールが破壊されれば、境界自体が消えていくからだ。
個人が強くないと生き抜けない。
小さなコミュニティが形成されていく。
そこで生まれる小さな物語。小さな奇跡。わずかな助け合い。
現代劇の映画を観ても、大抵はそういうテーマを裏に抱えている。
映画は現代性を写す合わせ鏡だ。
ヒーローが悪者を倒すシンプルな勧善懲悪は現代にそぐわなくなってきた。
悪者にも家族がいて、人生があって、その感情を描くのが現代の作品だ。
世界とか、国とか、社会とか、そんな大それたものじゃない。
「みんな」という、手の届く範囲の小さなコミュニティ。
それをどうやって描くのかが、現代を生きる我々が求めているテーマなのだと思う。
もちろん、そんなテーマを超越しようという作品だってたくさんある。
普遍的な何かを探そうとすればそうなっていくのかもしれない。
芸術の目指す場所は、そういう高みとも言える。
でも、どちらが優れているという事は実は言えない。
現代性をとらえることも表現で、普遍性を目指すことも表現なのだから。
デビッド・宮原は、現代性から一歩も逃げない。後退しない。
現代の社会が持つ病理を肌で感じて、作品に投影していく。
時には軽やかな笑いに変えて、時には嗚咽してしまうような涙に変えて。
「終戦直後」という時代を選んだのは、偶然じゃない。
そこに、現代を感じたからだ。
肌感覚で、それをみつけたからだ。
きっと、終戦直後の孤独が、現代の孤独と繋がっていると発見したからだ。
誰も考えつかないような角度から現代性を表現できる稀有な作家だと思っている。
デビッド・宮原という監督は、そういう作家だ。
大企業でもない、公共でもない。
最小のコミュニティと言ってもいい劇団が、映画を創った。
その作品のために創られた座組でもない、誰かの思惑が入るようなプロジェクトでもない。
元々あった集団が、20年間も共に歩んできた仲間たちで、映画を創った。
手に手を取り合って。
Youtubeのように個人が動画で発信できる時代に。
小さなコミュニティで作品を練り上げた。
みんなで映画を創った。
みんなで届けようとしている。
これは、現代を生きながら、どこかで孤独を抱えている全ての人たちに送るプレゼントだ。
本当なら朝から映画館に行って、受付のそばにいたい。
当日券が残っていたらチラシを持って、新宿の街で声掛けをしたい。
けれど、稽古が始まる。
明日の朝、チケットの受付が始まったその時間は、もう稽古の真っ最中だ。
そして、その稽古の真っ最中に、映画の最初の上映が始まる。
いつか夢を見た。
小さい夢を見た。
この小さな小さな自分たちの力で。
もっともっとたくさんの人に届けられるようなことをしたいと願った。
頭が破裂するほど願った。
絶対に届く。
絶対にだ。
今を生きる全ての人に。
きっときっと。
ここがはじまりの場所。
ここからがこの世の中の全ての孤独に立ち向かう一歩。
あなたよ!のたれ死ぬな!生きろ!
あなたの胸のど真ん中に投げ込むど直球だ。
公開日がやってきた。
遂にその日がやって来た。