毎年やってくる終戦記念日だった。
テレビ局だって、新聞だって、雑誌だって、この日は戦争について振り返る。
すでに、その番組や記事を担当している人は戦争経験者ではないはずだ。
73年という月日が経ってなお残る傷跡は、次世代に引き継がれている。
いや、次々世代なのかもしれない、実際は。
「戦争を知らない子供たち」という歌が流行ったのが自分の親の世代、団塊の世代なのだから。
その団塊の世代が、すでに高齢化しているのだから。
それでも変わることはない。
子供に戦争時代のアニメが放送され、大人にはドラマが放送され、ドキュメンタリーが放送される。
名画座では戦争映画の特集が組まれる。
大手マスコミがやっているのだから、小さなWEB媒体がやることはないかもと思うけれど、やはり触れる。
たとえ未経験者であっても、想像以上に、無意識にまでこの日が刷り込まれている。
セブンガールズは終戦直後の物語。
やはり戦争が強く強く作品に影を落としている。
キャッチコピーにも「戦争」というワードが入っている。
実際、作品の中の登場人物たちは、戦争によって受け入れがたい運命を受け入れた人物ばかりだ。
戦争の物語なのか?と聞かれたら、それは違うと思う。
大抵の戦争の話は、戦前から、戦中を描き、最後に戦後がやってくる。
この物語は、戦後から始まる。
「もはや戦後ではない」という言葉が戦後10年目にして流行った。
まだ沖縄や小笠原諸島の自治を回復していないにも関わらずだ。
平成の元号になった時も「戦後は終わった」と口にする人がいた。
平和の時代ではなく「戦後」という時代なのだという認識が知識人たちの中にある。
そして中には、いや、今も「戦後」という時代なんじゃないかという人がいる。
政治的にも社会的にも国際的にも、未だに戦争の影響が残っている以上はということなのだろう。
そう思うと、セブンガールズは戦争の物語というよりも長い長い「戦後」という時代の始まりの物語なんじゃないかと思う。
だから現代から観ても、物語に共感が出来るんじゃないかと思う。
自分の中では、今も戦後という時代のままだ。
「この世界の片隅に」の原作のこうの史代さんは、自分と同世代だ。
決して戦時中をリアルタイムに知っているわけではない。
大袈裟な戦争ではなくて、日常としての戦争を描こうと思った理由がなんとなくわかる。
知りたいのは、その時代、どんな日々を過ごしていたのかだ。
多くの証言と、資料を積み重ねるだけでは見えてこない、より人間らしい日常的な戦争の感触だ。
今、再度実写ドラマ化されているし、アニメ映画はなんと公開から600日以上のロングランになっている。
更に別のシーンを加えたリメイク版の公開まで発表された。
正直に言えば、戦争について考えることなんか終戦記念日ぐらいだという人も多いはずだ。
それぐらい現実や日常は、厳しいし、常にそこにある。
それはなんにも恥ずかしい事ではなくて、むしろ誇れることなのだと思う。
夢に生きることなんか出来なかった時代ではなくなった証拠なのだから。
今の日本人に作品を発表するのであれば「反戦」はテーマにならないと思う。
何故なら、それぐらい日本人にはとっくに戦争への嫌悪感が刷り込まれているから。
戦争を反対していない日本人に会ったことがないし、見たことがない。
テーマになるとすればきっと反戦を前提とした、日常的な何かなのだと思う。
あるいは、テーマなんてないよ!というテーマすら、そこに繋がっているのだと思う。
セブンガールズという映画を観て。
人は何を思うのだろ。
現代と何が繋がっていると思うのだろう?
終戦という時代はいつまで続くのだろう?
戦前から変わらないことがあるとすれば日本の夏の風景は、死者と共にあるという事だ。
盆は、死者が帰ってくる。
先人たちを思うのは何も戦後から始まったわけではない。
あの、大きな大きな花火だって、死者への合図から始まった。
日本の夏の夜の夢は、いつだって、死者と繋がっている。
人を思えば、過去の人に、未来の人に、どこまでも拡がっていく。
そしてきっと、今、隣にいる人を思うことに繋がっていく。
パンパン小屋で雑魚寝をしていた娼婦たちのシーンがふいに脳に浮かんだ。
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