2018年08月22日

目の前に生きている。

夏の甲子園が終わった。
なんというドラマか!
物語をいとも簡単にスポーツは越えていく。

今、作り手は、常にドキュメンタリーを意識しなくてはいけない時代なのかもしれない。

ドキュメンタリー映画が世界的にブームになりつつあることを言っているわけじゃない。
もちろん、社会派ドキュメンタリーとは、全然違う話だ。
そうじゃなくて、「素」の部分をエンターテイメントに昇華出来るかどうかが、才能と言われたりするようになってることだ。

落ち着いて様々なものを観ていけば分かる。
例えば、バラエティ番組にだって台本はあるけれど、台本からはみ出るものを中心に編集している。
ドッキリなんていうのは、まさにドキュメンタリーそのもので、だまして素の反応を引っ張り出す。
その場その場のアドリブでの対応力こそ求められているものになりつつある。
トーク番組だって、スポーツ中継だって、ドキュメンタリーと言っても間違ってないはずだ。
生で起きたことをクローズアップしていく。

そして、それは、創り込まれた作品であるはずの映画にまで侵食している。
例えば、シナリオにない休憩中もカメラを回して、編集で使ったなんてコメントが出る。
あ!それ言わなくてもいいのに!と、思わず焦ってしまう。
本番中のトラブルをそのまま使用したなんて言葉も意外にあっけらかんと話してしまう。
もちろん、それは悪いことでもなんでもない。
かつての映画の世界では多分ありえなかったんじゃない?というだけの話だ。
偶然、猫が通りかかって、最高の絵になったんだ・・・というような話は、昔からあるけれど。
例えば五社英雄監督とか、偶然の要素があったとしても絶対に口にしなかったと思う。
もしくは、逆に編集で排除していったんじゃないだろうか。
創られたものの中にリアルが入り込む余地なんてないのだから。
けれど、実際に視聴する人の目が、それを求めている。そしてそれが素晴らしいという評価になっている。

監督は、編集という加工の中で、リアルと、リアリズムとの往復が出来るから。
それはそれで、創作なのだと言えるのかもしれない。

ただ役者はそうじゃないんじゃないだろうか?
演技をしていない場所を繋ぎ合わせたのは役者ではなくてドキュメンタリー。
もちろん、そんなことを言いつつも、役者だってフレッシュな反応を求めている。
例えば、アドリブを言うことで、芝居の空気を循環させていくテクニックだってある。
ただ単純にそのアドリブも実は稽古して身につけた技術の一つであって。
隠し撮りや、ドッキリとはやっぱり違うんじゃないだろうか?
そんなことを想像してしまうのだけれど。
意外に、役者は誰もそのことに触れないでいたりもする。

そのぐらいドキュメンタリーというのは既に、全ての表現に入り込んでいる。

伝統芸能はそういうものを排除している。
なにせ、立ち方歩き方振り向き方、セリフの抑揚まで、最初から型が決まっている。
そして、それを繰り返すことで、同じことを常にできる状態まで高めている。
そこにドキュメンタリー的要素なんて欠片もない。
そうなると、今の感覚だと、全てが作り物だと思われてしまうけれど、そうじゃない。
繰り返していけば、その先に、繰り返しの中から生まれてくるリアルを越えたリアリティが出る。
例えば伝統芸能じゃなくても、フィギュアスケートを見ればわかる。
毎回同じ曲、同じ振り付けなのに、ああ!何かがにじみでている!という時が必ずある。
例えば、ピアノのコンクールでもいい。
全員が同じ譜面で同じ課題曲を弾いても、個性がにじみでてくる。

「セブンガールズ」には、実際、偶然の要素はほとんどないんじゃないだろうか?
あったとしても、編集であえてそれを選ぶようなことはしていない。
全てのシーンが何度も繰り返し稽古を重ねて、演じている。

でもね、でもね。
とあるシーンでね。
少なくても自分は相手役の目をずっと見れなくてね。
で、意を決して視線を合わせた瞬間に、泣きだしそうになって。
でも、泣くのをこらえながら芝居を続けたんだよ。
何度も繰り返し稽古をしてきたシーンだよ。
どうなるのかだって、その前もその後も、全部知っているのにだよ。
ぶわっと、感情が揺さぶられて、リアルを越えたリアリティが湧きだした。
そういうのって、絶対にドキュメンタリー的な要素では出てこない表現なんだと思う。
そして、撮影された映像を観て、ちゃんとそれが映ってた。
それは、やっぱり、偶然の要素なんか欠片もない表現なのだと思う。

多分、監督はドキュメンタリー的な要素が、現代において非常に大事なことを、すごく知っている。
実際、普段話していても、稽古場でも、舞台本番でも、大好物だし、あえてそういう要素を足したりもする。
舞台では、お客様を舞台に上げちゃったりすることまで台本に書くしさ。
なのに、この映画ではその手法はまるで禁じているかのように使わなかった。
徹底的に創り込もう!と長い稽古の段階から口にしていた。
面白ければいいよ!といつも口にしている監督がだ。

セブンガールズを観て欲しい。
女優たちの心に浮かぶ、湧き出る思いを感じて欲しい。
その涙に一切の嘘はない。
その笑顔に一切の嘘はない。
創って、なんだったら飽きてしまうほど稽古して、それでもなお湧き出てくるものはリアルを越える。

目の前に生きている。
セブンガールズは、そういう作品だ。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 04:46| Comment(0) | 映画公開への道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月21日

あの日新宿で夢を見た

なんだか今日は一日中忙しかった。
もちろん、厭じゃない。
事務作業が延々と続いている中、連絡が途絶えず。
同時に帳尻が合わなくなるようなイレギュラーな部分もあったり。
それが終われば、印刷物のチェックと、新しい音源のチェック。
その間にも、これはどうすればいい的連絡が相次ぐ。
同時にいくつ作業やってるんだーー!って叫びたくなるぐらいだったぞ。
ははは。

それもそのはず、タイミング的に色々重なっている。
今日からの対応と来週の準備と舞台の準備。
全部が今日に集中してきたような感じだった。

俳優の相島一之さんが、Twitterで「カメラを止めるな!」を観て考察していて。
その面白さの最大の理由は、
リハーサルの多さと出演者への当て書きそして出演者スタッフの一体化だと思う。それは「劇団」だったのだと思う。」
と呟いていた。
なんということだろう!
その劇団が映画を創ったことをきっと、相島一之さんは知らない。

そのあといくつか続くのだけれど。
「12人の優しい日本人」という映画も、1か月のリハーサルを重ねた稀有な作品だったと書いていた。
この作品は、自分は新宿のアルゴまで観に行った。
アルゴプロジェクトというまだ時代的には早すぎたミニシアターの走りのような企画があって。
とっても、面白い作品がたくさんあった。
その中で、三谷幸喜さんが初めて映画の脚本を書いたのがこの映画だった。
・・・というか、むしろ、元々三谷幸喜さんの舞台の台本で、岸田國士戯曲賞をとったんじゃなかったか。
アルゴといえば「渋滞」だとか「桜の園」だとか、あと長塚さんが教師役だったやつとか。
とにかく、面白い作品が多くて、その上舞台からの映画じゃ何度も観に行っていた自分が行かないわけがなかった。

相島一之さんは、舞台版からずっと出演している役者で当時は世間的には無名だった。
映画を観て、ああ、面白い役者がまだまだいるんだなぁ!と思わせてくれた作品だった。
舞台をやってる人の中では、もちろん、名が通っていた。
東京サンシャインボーイズは、面白い!と話題になっていたからだ。
そして、その舞台に立つ役者が、映画でも十二分に通用するんだぜ!と見せつけてくれて。
なんだか、舞台の世界にいた自分は溜飲が下がる思いだった。
そして、大きな大きな刺激を受けた。

最初のクリームソーダのくだりが、もう、おかしくておかしくて。

なんというか、自分の劇団の代表作を映画化した企画だったじゃないかと改めて気づく。
それを、自分は十代で目の当たりにしていたのだった。
自分の中から、劇団の代表作「セブンガールズ」を映画化しようという思いが出たのはその記憶もあったのかもしれない。
もちろん、監督は変わっていたし、キャストも全員が舞台と同じだったわけじゃないけれど。
それでも、梶原善さんとかも、そこで出演していて、すごいすごい!って興奮したのを思い出した。

セブンガールズは4度の再演をして。
映画撮影の前に、何か月もリハーサルを重ねて。
撮影中は、自分が撮影じゃない時は他のシーンを手伝うという。
まさに「劇団」のやり方で映画撮影をした。
偶然とはいえ、それに近い「カメラを止めるな!」がヒットして。
それを観た相島一之さんが「12人の優しい日本人」に言及して。
「セブンガールズ」の公開を控える自分がそれを読むというのが、なんだか必然のように感じた。
まるで、運命のように、色々繋がりすぎていて。
そう思ったら、サンシャインボーイズの「SHOW MUST GO ON」も繋がっている。

セブンガールズを映画化したことは絶対に間違いじゃなかった。
確信に変わるような思いだ。
また一つ勇気をもらった。
そういえば、あの頃の新宿のアルゴの映画館は、今のK'sシネマのすぐそばだ。
カメ止め!もそこで始まって、セブンガールズもそこで始まる。
リハーサルを重ねて「劇団」であった作品が、繋がっていくような錯覚。

いつか、相島一之さんにもセブンガールズを観て欲しい。
もちろん、中原俊監督にも、三谷幸喜さんにも、梶原善さんにも、豊川悦司さんにも。
もっともっとたくさんの人たちに。
そして「12人の優しい日本人」を思い出してくるようなことがあったとしたら。
それは、どれだけ嬉しい事だろう。わくわくすることだろう。
まだ十代の演劇青年だった自分が、あの小さな映画館でもらった勇気を別の形でプレゼント出来たら。

そして。
いつかの自分のような青年が足を運んでくれたらな。
そんなことを思ったりする。
ナマイキにスクリーンを睨みつけてさ。
面白いと悔しがってさ。

それは、連綿と続いていくものだからだ。
文化の遺伝だからだ。

ああ、自分はそんな映画館の中でドキドキした日を思い出したんだ。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 03:44| Comment(0) | 映画公開への道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月20日

肌に触れる秋と夏の残り

稽古日。舞台に向けての準備も着々と。
稽古前にとある写真の撮影。
この劇団の特徴の一つが悪ノリ。
とっても悪ノリした写真を撮影できた。
何かをやろうとすれば、全て、本気になってしまう。
いずれどこかで。

パンフ編集長より、全体のイメージが届く。
先週お願いして、今週届くスピード感。
素晴らしい内容。
・・・公開までに製作できるのかはさておき。

稽古に新しいメンバーが加わり、いつもよりも多い人数で呑む。
普段はそれほど話さない同士が話したりできる機会でもある。
意外に新鮮な組み合わせや、思ってもいなかった会話も。

稽古中、ロケ地の現在の写真が届いた。
近くに住む方が、今は更地になったロケ地の写真を送ってくださった。
あのトタンの壁も、蔦の絡まる壁も、何もなく、電柱だけが一本立っている。
そして、簡単な囲いで覆われていて、入り口のシャッターだけがかろうじて残っていた。
こうなることは知っていたし、こうなっていることも知っていたけれど。
その写真を観るだけで、あの日の思い出がまるで幻だったかのような錯覚を覚える。
セブンガールズという映画に、聖地巡礼はない。
すでに、その聖地はスクリーンの中にしか存在しないから。
そこに行っても、それがどこにあったかさえわからないだろう。
それにしてもなんというタイミングか。
20年以上放置された廃屋を撮影前ギリギリでお借りして、終わると同時に更地になるなんて。
まるで、セブンガールズを待っていてくれたかのようだ。

アルコールで揺れる脳。
あんなに暑かった熱帯夜は終わっている。
心地よい夕涼み。
いつか、夜の海を歩いた時の足の裏に伝わる砂浜の温度と同じぐらい。
ここはどこだろう?
いまはいつだろう?

夏休みがいつもあっという間に過ぎたように。
大人になっても、夏はあっという間に過ぎていく。
アブラゼミの声が日暮らしに変わる頃。
秋の足音を感じて、いつだって、夏の終わりに切なくなっていく。
今年の夏は、何をした?

けれど、秋が待っている。
セブンガールズを公開する秋はもう目の前だ。
たったの40日で、映画公開の日を迎える。
これからの日々は1日、1日がさらに重要になっていく。
監督だってナーバスになっていくだろう。
自分がなっているのだから。

とは言え、舞台本番も待ち構えている。
監督は台本を書き、自分は芝居をする。
それも同時進行で進めていかなくちゃいけない。

夜風は涼しくなったのに、体の火照りは取れない。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 07:33| Comment(0) | 映画公開への道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする