試写会の感想で、ネットにあるものもあるし、直接うかがう機会もあったのだけれど。
とにかく、必ず言われることの一つが、上映時間のことだ。
観にいらっしゃる方のほとんどが、144分という2時間を超える上映時間に身構えてしまう部分があったのかもしれない。
「長いぞと思って観てみたら、とても、2時間を超えているとは思えないぐらいあっという間だった。」
面白かった!とか、泣けた!とか、そういう感想とは別に必ず言われた。
すごい嬉しい感想。
その嬉しさには二面の嬉しさがある。
楽しんでくださったという嬉しさとは別に。
意図的に編集したことが、伝わっているという確信に繋がるからだ。
偶然ではない。
そうなるように編集している。
これは、舞台で蓄積してきた作品全体の流れというか、テンポの調整をしている。
何度も通して観て、流れが淀む場所は直しを入れている。
どのシーンにも実は余韻のようなものを入れることが出来るのだけれど、それをしていない。
余韻は全てを観終わってから、全てのシーンを思い出す方がカタルシスに繋がる。
感動的なシーンや、感情的に複雑なシーンも、余韻を途中で強く打ち出さない。
最後まで観て、一気に余韻がやってくるような。
いや、そんなこと実はとっても難しいし、どうしてもここは余韻が欲しい!という気持ちになるのを抑えつつだけれど。
もう、ぱっと次に行っちゃうように、編集を重ねていった。
日本の映画を海外に持っていくと、こんな風に聴かれることが良くあるのだそうだ。
「オヅかい?クロサワかい?」
日本映画の巨匠の二人。
海外の人から見ると日本の映画は大きくこの二つの系統に属するのだろう。
小津安二郎監督の技術は今村昌平さんに受け継がれて、日本映画学校で多くの映画人を生み出した。
黒澤明監督の技術は、大手映画会社に吸収されながら、多くのエンターテイメント作品を生みだした。
もちろん、監督それぞれの個性は、この巨匠二人に縛られているものではないけれど。
例えば、撮影スタッフなど、技術レベルでは延々と、遺伝が続いているはずだ。
師匠筋というものが必ず日本の職人、文化には残る。
そして、その映画に感動して、縁が監督を志した監督たちが出現してきたのだから。
二人の遺伝子をまるっきり受け継いでいない監督なんて、存在しないのではないだろうか。
いや、そもそも日本の芸能には、そういう二面性があるとも言える。
古典で言えば、歌舞伎と能だ。
きらびやかに着飾り見栄を切る歌舞伎。
面で顔を覆って、たき火だけで舞う能。
どちらも本道で、どちらも日本の持っている宝だ。
低予算映画のほとんどが、海外の人から見たら、小津映画の系統なのだと思う。
なぜなら、黒澤映画は予算がかかるからだ。
・・・というか、かかりすぎるケースが多いからだ。
自分は芝居を始めた頃に、池袋の旧文芸坐で、小津映画をさんざん楽しんだのだけれど。
例えば東京物語の冒頭の江ノ電のシーンとか、一つ一つの絵に、美しい余白、余韻を感じていた。
ああ、映画って豊かだなぁ、素晴らしいなぁ、と何度思ったことか。
絵のダイナミズムよりも、静寂で感情を揺さぶることが出来るすごい力を持っている。
この予算で映画を創ったのだから、そういう作品を予想していた人も多かったかもしれない。
でも、セブンガールズはそうじゃない。
余韻も余白もあるけれど。
考えながら観る方向ではない。
次から次へと、シーンが入れ替わっていって。
一気にクライマックスに辿り着く。
そういう手法の映画だ。
本来なら、予算がとってもかかるやり方で、創った映画だ。
テンポが良い分、エピソードを増やし、厚みを増やしていくのだから。
70分の映画でも、2時間以上に感じることがある。
それも豊かなことだ。
144分の映画でも、とても2時間とは思えない。
これもまた、豊かなことだ。
この不思議なトリップ感を、もっとたくさんの人に感じて欲しい。
ラストシーンに、たくさんの人に辿り着いて欲しい。