編集していた自分や監督はもちろん。
例えば、シナリオチェックをしたメンバーもいる。
他にも配給担当さんだっているし・・・。
いや、それどころか、初号試写だって皆で観ている。
最初から最後まで、モニターで、小さいプロジェクターで確認しているはずだ。
それなのに、まったく違うものがそこにあった。
映画館の、人間の伸長を越えるようなスクリーン。
馬鹿でかいスピーカー。
真っ暗に照明を落とした映画館という空間。
そこに大勢の人が座っているという不思議な共有感覚。
そこで観た「セブンガールズ」は、それまでのものと、全く違っていた。
監督も、自分も、それは想定していた。
映画館で観たら、こうですよね?と確認しながら編集していた。
細かすぎるカット割りの部分や、絵の変化が少ない箇所など、スクリーンを想定して編集を重ねた。
監督と二人で編集しながら、ふっと笑ってしまう瞬間も。
あるいは、感動して、良いシーンになりましたね・・・なんて言っている瞬間も。
全てスクリーンを想定して、お客様が観ていることを想定して編集していたはずだ。
はずなのに。
これは、まったく違うものになっていた。
まるで、増幅装置のようだ。
映画館という空間は、感情のアンプなのかもしれない。
想定していたのに、想定以上だった。
正直に言えば、別のものもある。
作品や、物語とは、別の感動がある。
やっと公開まで辿り着いたこと。
それは、企画当初から、今日までを走馬灯のように思い出す、辿り着いた感動でもある。
映画が始まった瞬間は、ああ、ついに・・・という感動で溢れていた。
けれど、物語が動き始めてから、お客様の反応を感じ始めてから。
ぐいぐいと、作品世界にのめり込んでいった。
自分たちで創った、勝手知ったる作品なのに。
何十回も、繰り返し観てきたものなのに。
あっという間に作品世界に引きずり込まれた。
映画館、スクリーン、それは、まるで魔法のような場所だ。
完全な客観にはなれない。
作り手側という場所から離れることは一生ない。
きっと、数十年後に観たって、それは同じことだ。
それでも、完全じゃないだけで、かなりの客観的視点で映画を観ることが出来た。
監督も、映画館での上映を終えて、客観的な感想を持っていた。
役者によっては、自分の登場シーンで涙を流した役者がいた。
普通はそういう事が起きない。
役者は主観で生きるのだから、物語の世界に入り込んでいないと、感情移入できない。
普通に一人の観客として、自分のシーンを観てしまうという体験を役者がした。
それも、何人もの役者がだ。
舞台俳優は、自分の芝居を観ることが出来ない。
映像に出たって、客観的に観ることが出来ない。
けれど、映画は、物語に没頭した時に、客観的に観ている自分に気付くことがある。
そういうことが、本当に起きた。
これは、純粋な映画作品としての感動だった。
辿り着いたとか。
これまでの道程とか。
自分たちでここまでやったとか。
自分たちでここまでやったとか。
そういう感動を上回っていたかもしれない。
セブンガールズという映画作品に、純粋に感動していた。
役者の誰もが口にした。
色々な人に観て欲しいという言葉。
そこには、もう宣伝なんて言うビジネス的なニュアンスは皆無だった。
まるで、友人に面白い映画を見つけたよと教えているような。
そんな顔だった。
面白い映画だから、観て欲しいという、シンプルな気持ちからだった。
決起会でプロデューサーが最後に言ってくれた言葉。
「作品の力で、また一人、心を動かしました」
それがいかに重い一言なのか。
全て映るよ。
そう聞いていた。
カメラの前の事象だけが映画になるんじゃない。
撮影現場の空気や雰囲気、気持ちや思い。
そういうものは、必ず映ると。
だから、現場の空気を大事にした。
ひたむきに、まっすぐ、嘘がなく、撮影に挑んでいった。
それは、本当だった。
作品全体に流れる思いは、最初から最後の瞬間まで一貫してスクリーンに投影されていた。
小さいモニターじゃわからないうねりが、おいらたちを支配した。
すごい作品を創ったよ。
自信をもって、胸を張っていい。
自分たちの全てをここにぶつけた。
そう思って欲しい。
決起会でもらったそんな言葉は、スクリーンの魔法と一緒に今も、自分の体の中心にある。
つっついたら、すぐに泣く。
だから、冗談ばかり言って笑ってる自分がいる。
だから、冗談ばかり言って笑ってる自分がいる。
ごまかしてるなぁと気付きながら、お茶らけてしまう自分がいる。
だって、泣くのは本当はもっとずっと先だから。
人に、面白いよ!と自信をもって勧めることが出来る作品になった。
スクリーンがかけた魔法は、それまで観ていた景色さえ変えてしまった。