2018年05月11日

書いたものを観てもらう事

春の嵐だったり、なんだか肌寒かったり。
来週の舞台本番週になったら暖かくなるという。
出来れば小屋入りから一週間、暖かいといいなぁ。
せめて、本番期間中だけでも。

今日はあまり作業が進まなかった。
そういう日もある。牛歩。
でも、ああ、ここをいじればいいのか・・・という発見があった。
大きな発見だった。

本番が近づくにつれて、どんどん、一人でも多くの人に観て欲しい気持ちになっていく。
それはもちろん、いつもの公演でも変わらないと言えば変わらないのだけれど。
でも、少しだけアングルが違う。
自分も作・演出をするというのは、ある意味、自分の脳を覗かれるようなもので。
どこか、いつもの役者的な距離感とは違う部分がある。
それでも見て欲しいと思えるのはとても健全なことだ。

子供がね。絵を描いたり、作文を書いたりする。
それで、見せてって、言うと、恥ずかしがって隔したりする。
まだ子供は自意識がそこまで発達していないからお願いすれば見せてくれるけれど。
それが、思春期の頃になると、それ以上に恥ずかしくなる。
絵も、作文も、人に見せるって言うのには一つ壁が出来る。
それは、書かれたモノを、自分の一部と認識しているからだ。
それこそイラズラ書きや、パラパラ漫画すら、見つかれば恥ずかしそうな顔をしたりする。

今日まで、おいらが知る中で。
才能のある人、天才と呼ばれる人は、ここが違う。
書かれたモノを、書かれた瞬間から、自分と切り離して考えることが出来る。
例え、自分のことを書いていたとしても、作品と自分というものの距離感が、先天的にある。
客観性を持っているという事なのかもしれない。
自分はそこがまだどこか曖昧で、簡単に人に見せるけれど、見せながらどこかこそばゆかったりする。
そういう時、才能ある人に憧れたりするのだけれど。
音楽でも、演技でも、他にもたくさん発表してきたのに。
おいらは、結局、積み上げてきただけの凡人なのだなぁと自覚する。
そこの壁について考える処からスタートしなくちゃいけないのだから面倒で仕方ない。
それにしては、簡単に、読んでよって、台本を人に渡すって言われたけれど。

そういう段階は越えている。
それは、全て、稽古でクリアしてきたことだ。
慎重に・・・一気に変えずに順番を考えながら変えてきた。
今、これを言っても意味がないというタイミングでは何も言わないようにしたり。
ここについて、言える日が来たらと思っていた段階は、もう全部クリアしてる。
だから、今は、観て欲しい。
これで、何かを言われても、なんの問題もない。

もう週末か。
この分じゃ、気付けば本番だぞ。

ふんばれふんばれ。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 04:37| Comment(0) | プロモーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする