ミーティングに行く。
これから必要なこと、重要なこと、スケジュールの確認。
完全なる自主運営と言える劇団という団体でも、情報開示などは決めていく。
情報解禁までは、出演者たちも、あまり情報を出したりしないようにお願いしている。
タイトルが変わる可能性も、事情で公演スケジュールが変更になる可能性も、出演者の変更も。
そういう可能性があったり、あるいは、他との微調整がある段階ではなるべく公開しない。
それでも本番日程までの逆算で、チケット発売日が決まり、DM投函日が決まり、情報解禁日が決まる。
基本的に舞台の告知は4~6か月前に始まり、1.5~2か月前にチケット発売というスケジュールで動いてきた。
そういうスケジュールも、劇団と言う小回りの利く自主団体だから、ある程度遊びをつくれる。
けれど、映画のスケジュールになると、情報開示一つとっても、打ち合わせが必要になる。
マスへのリリース、HP公開日、映画館側の告知、そういうものを合わせていかなくちゃいけない。
そして、当然だけれど、その宣伝材料が必要になる。
チラシやポスターなどの印刷物から、宣伝にあたってのポイントとなる部分まで。
映画やります。だけでは何の意味もない。
どんな映画をやります。こんな特徴があります。までは、事前に用意しなくてはいけない。
公開から逆算しての試写会なども計画していかなくてはいけない。
公開日から逆算するという部分では舞台と大きな違いはないけれど、全てが自分たち以外との情報共有が必要になる。
例えば、仮チラシ1枚だとしても、一応、確認が必要になってくる。
小劇場の多くはいわゆるハコ借りであり、音楽や映画の多くは、会場が運営しているのだ。
そこは、大きな違いになる。
大きな映画になればなるほど、その規模は大きくなる。
広告代理店が入り、宣伝全体の宣伝ディレクターが全体の方向性を決めていく。
初日舞台挨拶の台本を書く人がいるぐらい、プロモーションを計画的にしていく。
1年前からのティザー広告を開始するようなケースもある。
もちろん、そんなことをすれば、億単位の予算が必要になってしまう。
数千万円単位で広告を打った映画のプロデューサーが平然と予算が少ないとインタビューで答える世界。
そういう世界で、おいらたちは、予算もなく、この映画を効果的に宣伝していかなくちゃいけない。
もちろん集めなければいけない人数が違いすぎるのだから、当たり前のことだけれど。
出来ることには当然限りがあるのかもしれないけれど・・・。
時代的に観れば、ゲリラ活動がやりやすい時代なのも間違いがない。
チラシを配り、ポスターを張り、WEBを公開し、予告編を流し、そこから先について考える。
どうやったら、多くの人に届くだろう?
ミーティングの中で、プロデューサーは、何よりも強烈は事実があると口にする。
20年間劇団を続けて来たこと、この予算で自分たちで劇場用長編映画を創ってしまったこと。
本当に毎週稽古を続けていること、舞台をやりつづけたそのフィロソフィー。
それが一番のこの映画の魅力になるんじゃないかという言葉。
何を信じてお前は20年以上、舞台に立ってるんだ?
そう聞かれている気がして、一瞬、脳がプロモーションとは別の考えに支配された。
20年間と言う思いが込められた映画。
そこが、一番のこの映画の訴求力のある部分だという話だったのに。
世の中の人はどう思うのだろう?
20年間も演劇をしているような人たちのことを。
いつも芝居のことばかり考えて、長い年月を過ごしてきた人たちのことを。
震災が起きた週にさえ、稽古場に集まって、稽古をしようとした人たちのことを。
くだらないとか、バカバカしいとか、どうしょうもないとか。
そんな風に思われているんじゃないかなぁと考えていた時期もある。
多分、正直に言えば、得体が知れない連中・・・が本音なんじゃないだろうか?
それこそ親戚にいつまで遊んでるんだ?と言われたこともある。
一度だけ出席した同窓会で、馬鹿にされたことだってある。
もういい加減、何を言われたって、へっちゃらになっている自分だっている。
そんな中、それでも、何かを信じて、何かを目指して、こういう時間を過ごしている。
それが、本当に訴求力になるのか。
続けてきた信念が、宣伝になるのか。
脳内で起きているパラドクスに戸惑い続ける。
胸を張ってきたのに、いざ、それを看板にすると言われたときに感じる戸惑い。
戸惑いながらもどこか納得している自分がいる。
なぜなら自分だったら、そういう世界を覗いてみたいからだ。
興味があるからだ。
でも、そういう道を歩いてきたから、別の世界の20年を知りたいだけなのかもしれない。
ほぼ日本初だと言っていい映画だ。
劇団の作品が映画になったケースはこれまでにもあるけれど。
そのまま劇団員が舞台と同じように出演している劇場用映画なんて聞いたことがない。
他の映画監督を誘うわけではなくて、演出家がそのまま監督をするなんて聞いたことがない。
いつものように稽古を重ねて、映画撮影に挑んだなんて聞いたことがない。
小劇場と変わらない予算で、やれることは全部自分たちでやった映画なんて聞いたことがない。
女優が、電動工具を手にしてセットを創ったなんて聞いたことがない。
当たり前のことをやっているけれど、映画の世界から見たら、異常なこと。
スケジュールを再度確認する。
議事録的に、もう一度文章に起こす。
皆にも共有事項として送った方がいいかもしれない。
なんとなく把握するのでも良い。
これから始まるゲリラ活動への覚悟を決めてくれるなら、きっと、もっと良い。
5月には舞台公演が待っている。
もちろん、企画とは言え、いつもと同じように本気で取り組む。
けれど、この公演には別の側面がある。
映画「セブンガールズ」の宣伝の皮切りになるという側面だ。
キックオフだ。
まるで、あのパンパン小屋の娼婦たちのようだ。
ボロ小屋から、星を見上げるしかできない娼婦たち。
泣いて、作り笑いして、何かを信じて、歌うあの女たち。
あの娼婦たちが美しいと気付いた時が、きっと、あの難題「ドブネズミの美しさ」を理解できる時だ。
その映画を製作している自分たちは、じゃあなんなの?
問われている。
問われている。
20年間を問われている。