悪ふざけと、悪ノリと、コメディを分けるラインってどこだろうか?
きっと、観ている人によっても微妙に基準が違うんだろうなぁと思う。
うちはコメディ的要素の入る作品を何度もやってきたけれど。
個人的には、悪ふざけになっちゃいけないというのは、自分の中の基準だ。
悪ノリは、まぁ、少し違う話だ。
ノリだから、コメディに限ったことじゃない。
シリアスの中にも悪ノリって言うのはある。
いわゆる芝居の流れから逸脱して、ノリで進行していくような場面だ。
実は、これに関しては、自分はむしろ芝居の中にあるべきだとすら思っている。
刀剣を使用した殺陣のシーンでも、悪ノリしてしまうぐらいの方が良い。
ノリっていうのは、音楽的に言えばグルーヴになる。
作品にリズムを生むし、そこにリアルがある。
ただし、一点、注意しなくてはいけないのは、戻れるのかどうかだ。
ノリでどこまでも逸脱できるけれど、本筋にいつでも戻れるかどうか。
それが可能なら、悪ノリは作品のアクセントになる。
ノリでふざけすぎちゃって、悪ふざけに観られることっていうのもあるのかもしれないけれど。
それは、ちょっと違うかなぁと思う。
やっぱり、悪ノリと悪ふざけは、全然違うものだ。
流れから逸脱していく・・・という意味では似ているような気がするけれど。
一番の違いは、流れじゃないところからも逸脱していることだと思う。
役から逸脱したりする。
なんというか、安っぽくなっていく。
役作りから外れないまま悪ノリするのは良いけれど、役を忘れて、ただ面白いことをやるような場合は冷めてしまう。
微妙なラインだけれど、まぁ、それが自分の中の基準。
コメディ作品の映画やドラマで、俳優たちが一様に「コメディは難しい」と発言する。
その難しいは、どこを指しているのかなぁといつも思う。
もちろん、難しい。簡単なわけではない。
感情であるとかとは別の、テクニカルな部分や客観性が必要なことは間違いない。
それは本当はコメディに限った話じゃないはずなのだけれど。
それでも、「コメディに初挑戦!」なんていう言葉はよく見かける。
最近、これは悪ふざけなんじゃないか?と思えるような作品も見かけるようになった。
でも、意外に世の中の評価はそれほど悪いものじゃないようだ。
自分の作品でもないのに、なんだか、少しほっとしたりする。
あ、いいんだ、こういうのも受け入れられる土壌なんだ・・・。
ちょっと驚きつつも、安心してしまう自分がいる。
自分の中では無しなんだけど、世の中的には有りというギャップについては注意深くならないといけない。
まぁ、観たいものではないのだけれど。
そういう作品を観ると、自分の中の基準にもなる。
喜劇俳優。
チャップリンを代表にして、日本だったらエノケンロッパから始まる。
コメディアンとは、つまり、芸人ではなくて、喜劇俳優のことだったはずだ。
最近ではいなくなったのかもしれない。
少なくても、日本を代表する喜劇俳優が誰か?と聞かれても答えられない。
漫才師やコント師とは違う。
あくまでも、芝居を演じる俳優であり、何が面白いかを真剣に考えている人たち。
0.1秒の時間を生きている人たち。
ひょっとしたら、渥美清さんが最後の喜劇俳優だったのかもしれない。
釣りバカ日誌という映画で、毎回、西田敏行さんと谷啓さんのやり取りが楽しみだった。
実は何作品目かのシナリオを読んだことがあって、まるっきり台本とは違うことに気付いた。
完全に、お互いが浜ちゃんと課長になりきって、アドリブの応酬をしていた。
毎回のように勤務態度を注意する課長と、釣りのことしか考えていない浜ちゃん。
その役を逸脱することはなく、かと言って、決められた流れからは逸脱して。
タイヤの付いた椅子に乗って、シャーっとすべってみたり。
谷啓さんに至っては、ちょっとした溜息で、笑いを生んだり。
それはもう余りにも見事な喜劇に仕上がっていた。
お互いを信頼して、押せば引き、引けば押し、芸術的とも言えるやり取りだった。
悪ふざけには見えなかったよ。
まさに、芸だった。
まぁ、時には、悪ふざけを観て、笑っている自分もいるのだけれど。
自分はそれはやらねえなと、思っている。
ラメのついったビキニ着て、踊った役者が言う事でもないけれど。
問題は、そんな自分の基準が時代遅れでさび付いたものなんじゃないかと言う不安だけだ。