かつて吉本隆明さんが、名作とは「誰もが自分にだけはわかる」と感じる作品だと言っていた。
「誰もが」なのに「自分にだけ」はどこか矛盾しているようだけれど。
確かに、そういう作品こそ・・・自分にとってのオンリーワンになる要素になる名作だと感服した。
それは文学について書いている文章だったけれど、恐らく文学だけではない。
例えば、音楽でも。映画でも。演劇でも。どんなジャンルにでも言えるんじゃないだろうか?
「誰もがわかる」ように、今の多くの作品は創られている。
わかりやすさは、一つのキーワードと言っていい。
難解な作品はむしろ敬遠されやすい時代だと思う。
少なくても、10年前、20年前と遡れば、その傾向をすぐに感じる。
テレビ番組では、テロップで全ての言葉を文字に起こして表示する。
ドラマだって映画だって、説明を重ねていく。
それは、読解力が落ちてきているのかもしれないとも思った。
けれど、読解力だけの問題だけでもないのだなぁと最近は思っている。
SNSを始めとして、共有、共感が出来る作品を探している。
わかりやすさは、共感を生む。
例えミステリー作品だとしても、全ての謎を作品内で解決する。
問題は「自分にだけ」の部分だ。
例えば太宰治でも、村上春樹でも良い。
JAZZでもBLUESでも良い。
実際には、大ヒットのベストセラーなのに、ファンの多くは自分にはわかるという特別感を持っている。
多くの人に愛されている以上、実際にはとってもわかりやすいはずだ。
わかりやすいのに、誰にでもわかるものではないと思わせる何かがそこにある。
その何かが、なんなのか。
そこについては、ずっと考えている。
きっと、感覚的なものではない。
もっとずっとはっきりしたものだ。
どんな作品でも、好きな人嫌いな人が現れる。
万人に愛される作品なんて、実際にはこの世のどこにも存在しない。
だから、実際には「誰にでも」という部分も相当難易度が高い。
テクニカルな部分で、蓄積されたノウハウがあるから、現在の作品には隙がない。
難易度が高いけれど、その分、研究もかなり進んでいる。
昔のように本を手に入れるのに手間だった時代はとっくに終わっている。
ありとあらゆる物語を、インターネットでも、大型書店でも、古本屋でも手に入れることが出来る。
ある意味高度な「誰にでも」なテクニックが、最初の作家たちの入口のようになっている。
「自分にだけ」の部分はそれに比べて、ノウハウが蓄積されていない。
いや、テクニカルであったり、ノウハウであったりというのとは違う部分だ。
物語構成のノウハウ、登場人物設定のノウハウ、編集演出のノウハウ、小道具の使い方。
少し調べるだけで、たくさんの定石が出てくるけれど。
そのどこにも、書かれていない。
恐らくは、作品の中に見え隠れする、作家が持つ哲学であったり、エゴであったり。
隠しきれない生々しい人間的な匂いであったり。
そういうものが堆積することで出来上がる「人格」だからだ。
作品が人格を持っているなんて、おかしいように思う。擬人化してしまっている。
けれど、思い返してほしい。
自分にだけはわかる!と思っている作品を人が説明する時。
それはまるで、自分の友人を説明しているかのように見えることを。
擬人化していい。
作品に人格が生まれて、その人格にシンパシーを持った時、その作品は特別になる。
これは、テクニカルに解決できることとは思えない。
文字通り、作家が生み出し、育てるという感覚の中で、出来上がっていくものだ。
作品は「友人」になれる。
小説も、映画も、演劇も、音楽も、「友人」になれる。
作品を一つ作り上げるということは。
一人の人間を創ることと似ているのかもしれない。
どれだけの愛情を注げば、人格にまで成長するのだろう。
自分にとっては友人だけど。
自分だけじゃなくて、たくさんの友人を作って欲しい。
どんな作品でも。