演劇にのめり込んでいった頃、ありたあらゆる舞台表現に足を運んだ。
時にはお手伝いをして、時には招待券を譲ってもらって。
それこそ、時間とお金と機会があれば、なんでもかんでも。
伝統芸能、新劇、アングラ、ミュージカル、商業演劇、小劇場、ダンス、ライブ。
とにかく、なんでもいいから観に行けるものがあったら行った。
それは、新しい感動がみつかるかもしれないという期待からだった。
その中でも劇体験というのは大きかった。
それこそ、ストリップ小屋まで足を運んだのだけれど。
様々な舞台表現の中で、演劇だけが持つ劇体験と言う感覚があった。
初めてテント公演を観た時の感覚、舞踏を観た感覚、悲劇を観た感覚。
色々な劇体験を、したくて、色々な舞台を観に行っていた。
もちろん、小説でも漫画でも映画でも作品からもらう感動は変わらない。
ただ演劇だけが持つ劇体験と言う感動が確実に若い日のおいらにはあった。
暗闇から浮かび上がる役者に、照明が揺れて、影が揺れて。
微かに紅潮していく生々しい表情から感じるそれは、映像にはないものだった。
息遣いまですべてが演劇だった。
役者の指先まですべてが演劇だった。
こんな感動をしたことはないなと、おいらは思った。
もちろん、劇体験に限らなければ、新しい感動は、どのジャンルにもある。
音楽でもあるし、映画でもある。
こんな映画があったのかよ・・・としびれてしまうことは、普通にある。
なんだったら、普通にテレビドラマやアニメーションや、何気ない会話に中にだってそれはある。
それは今でもいつでも求めていて、新しい物語、新しい作品を探し続けている自分がいる。
劇体験ってなんなのだろう?
それは、ある舞台では、時間であり。
ある舞台では、空気であり。
ある舞台では、合わせ鏡の中の自分であった。
目に見えないはずのものを見せてくれた。
緊張感のあるシーンは作れる。
音楽や、微妙な距離感や、照明効果で作っていける。
優秀な演出家はいとも簡単に、そういう緊張感を作り出す。
でも、緊張感が伝わる空気感は簡単には作れない。
役者と役者の間に流れる空気のようなもの。
そこにある微妙な緊張感は、芝居じゃないと創れない。
映像にもその空気を残すことが出来るけれど、その場にいるのとは大きく違う。
親の機嫌を敏感に感じ取る子供のように。
客席にいれば、その空気が手に取るようにわかったりする。
その連続が作品になった時、大きな感動を覚えた。
実際、当時好きだった作品のほとんどが、あまり物語がない作品ばかりだった。
劇場から一歩出た時に。
まるで夢から醒めるような、不思議な感覚があった。
ある人が、演劇とは肉体を持った詩だと言っていた。
テレビドラマを観ていて、ああ、凄い芝居だなぁと思う時に。
これ、生で見たら、とんでもないんだろうなぁなんて同時に思っている。
おいらが好きな役者は、やっぱり、そういう劇表現をしている。
例え目に映らなくても、映像には残りづらくても、それを忘れることがない。
自分たちの持つ最大の強みは、それを骨のレベルから理解していることだ。
形を整えれば、表情を決めて、セリフの言い方が完璧で、すばらしいカメラワークで、素晴らしい編集なら。
恐らく映像というのはとてつもない力を発揮する。
むしろ、演技していないようなカットでも、そういう力を発揮することがあるぐらいだ。
目に見えないものを多く含んだ演技だったとしても、形が整わないこともある。
どんな気持ちがこもっていても、カメラにそれが写らなければ、何も伝わらない。
それぐらい、映像というのは視点を固定されてしまう。
それでも、おいらたちは、もう骨身に染みているから、そこを忘れることがない。
そこが本当は一番大事なんだと、心の奥から信じている。
それは、やっぱり、大きな大きな強みだ。
バラエティ番組で、俳優が、泣けと言われて、涙を流すというような企画があった。
あれで、涙を流したら、すごいの?
なんにもないよ、その涙には。
幼稚園に行けば、殆どの園児が、嘘の涙なんか流せるよ。
そんなもんで、残念ながら感動なんかしない。
こっちは、ちゃんと劇体験してきたのだから。
役者が泣きたくなくても、泣けてきてしまうような場面だって何度も巡り合ってきた。
泣けるからすごいんじゃない。涙を流せるのが凄いわけがない。
泣いてしまうほど、その役になり切っていることや、感情が揺れていることが凄いんだ。
その空気を知ってる。空気を見てきている。
そんなことばかり考えている連中で映画を創った。
形に拘っている部分がないとは言わないけれど。