稽古日。稽古だけは変わらず続く。
早めに行って最初の班の稽古を見学。
その前のフリータイムも稽古をやっていた様子だった。
観ていると、ちょっと、面白いぞと気付くことがある。
俳優としての自分が、こうやった方がいいなぁと思う部分と。
演出をしている自分が、ここはこう言った方がいいなぁと思う部分と。
その両方が同時にあることだ。
演出と言っても、自分が俳優だからわかる役者の生理で話をしているわけで。
それは同じもののはずなんだけれど、でも、どうやら少し違うんだなぁと気付く。
自分ならこうやる、自分ならこう言う。
その二つを頭に思い浮かべながら、でも、特に口は出さないようにする。
この班にはこの班の演出家がいる。
自分が納得するところまでやればいい。
来週からは、全ての班で合同の稽古になる。
全員が観ている環境で全員が稽古をしていく。
作品も作家も演出家も出演者も違うけれど同じ興行。
全体感だってある。
作品同士のバランスや、例えば衣装がかぶったりとかもあるかもしれない。
全体の中で、自分の作品に取り組むというのも大事なことだ。
同じ興行と言う意味では、別の班に、意見を言う人も出てくるかもしれない。
どの作品も良い作品になって欲しいのだから、当然のことだ。
まぁ、おいらは、そうそう口は出さないつもりだけれど。
一つの作品で演出をしている以上、中々、厳しい。
逆に出演者たちは、少し自由に意見を交換できるようになるかもしれない。
それは、それで、プラスになっていけば素晴らしいことだ。
今週の稽古は少しペースダウンをした。
先週まではどこをやるか、どこを強化するか考えていたのだけれど。
先週の稽古で、観念的なことを随分、口にしたから、チェックに近い稽古で良いと思った。
まぁ、やり始めれば、中々そうはならないのだけれど。
感情的な部分と肉体的な部分が、一致するには、相手役のいる環境で演じてみなくちゃいけない。
先週の観念的な部分をふまえて、その上で演じてみる、繰り返してみる。
その中で、徐々に、自分の中での心身一致をしてくれたらいいぐらいに思っていた。
ディティールを詰めていったりもするけれど、それがしっくりくるのは、その次の次ぐらいだ。
そのぐらい繊細な作業にまで進んでいると思っている。
でも、稽古場でいくら稽古しても稽古しても、完成することはない。
ここに照明が灯って、音楽が流れて、セットが建って、そしてお客様がいて初めて完成する。
その全てを想定の中で稽古をしているのだけれど。
大抵はその想定を軽く上回ってくる。
照明が入った瞬間に、絵が大きく変わる。
音楽が流れた瞬間に、気持ちの乗り方が変わる。
セットに立った瞬間に、役への入り方が変わる。
お客様の反応を感じた瞬間に、ものすごく生身な自分が表出する。
そういうことは必ず起きる。
それまで、完成することはない。
飽きるまでやって、飽きてからもう一度組み立てようと思っていたけれど。
どうやら、飽きることがないようだと気付く。
やってもやっても発見があって、やってもやっても面白い。
そういう作業になったか。
そういう稽古になったか。
悲しいとか、寂しいとか、切ないとか、そういうことじゃなくて。
自分の中で思いが溢れて泣きそうになる瞬間がある。
そういう感覚を稽古の中で見つける。万感。
泣かないけどさ。
これはとっても不思議だ。
込み上げてくるもの、どこからかやってくる溢れる水。
生きているとは、こういうことだと思わせる、圧倒的な実感。
その後、監督の稽古を観る。
監督の真後ろにいるおいらは、役者の芝居の手前に監督の背中がある。
今日の背中は、なんというか、余り観ない背中だった。
演出をしているのに、演出ではないもどかしさを背中が語っていた。
どうやって、ここから纏めていくのかな。
背中はまだ答えまでは出していなかった。
普段の公演だったら、おいらは多分、この背中を観ることはない。
そして、きっと、口を出している。
考えろ。
まだ芝居は変わる。
まだ発見は続く。
自分だったら、なんて言うだろう?どうやって演じるだろう?
考えろ。考えろ。