2018年04月16日

腑に落としながら

稽古日。稽古だけは変わらず続く。
早めに行って最初の班の稽古を見学。
その前のフリータイムも稽古をやっていた様子だった。

観ていると、ちょっと、面白いぞと気付くことがある。
俳優としての自分が、こうやった方がいいなぁと思う部分と。
演出をしている自分が、ここはこう言った方がいいなぁと思う部分と。
その両方が同時にあることだ。
演出と言っても、自分が俳優だからわかる役者の生理で話をしているわけで。
それは同じもののはずなんだけれど、でも、どうやら少し違うんだなぁと気付く。
自分ならこうやる、自分ならこう言う。
その二つを頭に思い浮かべながら、でも、特に口は出さないようにする。
この班にはこの班の演出家がいる。
自分が納得するところまでやればいい。

来週からは、全ての班で合同の稽古になる。
全員が観ている環境で全員が稽古をしていく。
作品も作家も演出家も出演者も違うけれど同じ興行。
全体感だってある。
作品同士のバランスや、例えば衣装がかぶったりとかもあるかもしれない。
全体の中で、自分の作品に取り組むというのも大事なことだ。
同じ興行と言う意味では、別の班に、意見を言う人も出てくるかもしれない。
どの作品も良い作品になって欲しいのだから、当然のことだ。
まぁ、おいらは、そうそう口は出さないつもりだけれど。
一つの作品で演出をしている以上、中々、厳しい。
逆に出演者たちは、少し自由に意見を交換できるようになるかもしれない。
それは、それで、プラスになっていけば素晴らしいことだ。

今週の稽古は少しペースダウンをした。
先週まではどこをやるか、どこを強化するか考えていたのだけれど。
先週の稽古で、観念的なことを随分、口にしたから、チェックに近い稽古で良いと思った。
まぁ、やり始めれば、中々そうはならないのだけれど。
感情的な部分と肉体的な部分が、一致するには、相手役のいる環境で演じてみなくちゃいけない。
先週の観念的な部分をふまえて、その上で演じてみる、繰り返してみる。
その中で、徐々に、自分の中での心身一致をしてくれたらいいぐらいに思っていた。
ディティールを詰めていったりもするけれど、それがしっくりくるのは、その次の次ぐらいだ。
そのぐらい繊細な作業にまで進んでいると思っている。

でも、稽古場でいくら稽古しても稽古しても、完成することはない。
ここに照明が灯って、音楽が流れて、セットが建って、そしてお客様がいて初めて完成する。
その全てを想定の中で稽古をしているのだけれど。
大抵はその想定を軽く上回ってくる。
照明が入った瞬間に、絵が大きく変わる。
音楽が流れた瞬間に、気持ちの乗り方が変わる。
セットに立った瞬間に、役への入り方が変わる。
お客様の反応を感じた瞬間に、ものすごく生身な自分が表出する。
そういうことは必ず起きる。
それまで、完成することはない。

飽きるまでやって、飽きてからもう一度組み立てようと思っていたけれど。
どうやら、飽きることがないようだと気付く。
やってもやっても発見があって、やってもやっても面白い。
そういう作業になったか。
そういう稽古になったか。

悲しいとか、寂しいとか、切ないとか、そういうことじゃなくて。
自分の中で思いが溢れて泣きそうになる瞬間がある。
そういう感覚を稽古の中で見つける。万感。
泣かないけどさ。
これはとっても不思議だ。
込み上げてくるもの、どこからかやってくる溢れる水。
生きているとは、こういうことだと思わせる、圧倒的な実感。

その後、監督の稽古を観る。
監督の真後ろにいるおいらは、役者の芝居の手前に監督の背中がある。
今日の背中は、なんというか、余り観ない背中だった。
演出をしているのに、演出ではないもどかしさを背中が語っていた。
どうやって、ここから纏めていくのかな。
背中はまだ答えまでは出していなかった。
普段の公演だったら、おいらは多分、この背中を観ることはない。
そして、きっと、口を出している。

考えろ。
まだ芝居は変わる。
まだ発見は続く。
自分だったら、なんて言うだろう?どうやって演じるだろう?
考えろ。考えろ。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 02:55| Comment(0) | プロモーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする