また正義の名のもとにミサイルが発射された。
対岸の火事だからだろうか。
思ったよりも報道されていない。
とっても重大なことのように思えるけれど。
もちろん、賛否ある。
賛成意見も否定意見もいらない。
事実だけをもう少し知りたい。
米ロ関係や、駐留ロシア軍の動きだって、もう少し情報が出てきそうなものだけれど。
どちら側からも、正義の宣言と声明しか出てこない。
軍事行動はいつだってそうだ。
化学兵器の使用がキッカケのその裏で。
旧日本軍の731部隊(非人道的化学兵器開発をしていたと言われている)の情報開示のニュースがあった。
それも想像以上に扱いは小さい。
ナチスドイツのガス室は有名だけれど、日本の731部隊は未だに全容が解明されていない。
それは、生き残った人や、その家族への配慮もある。
目をつぶるようなことでもないし、かと言って、その後の人生を傷つけることは良くないと思う。
「正しい」とはなんだろう?
今の時代に正しいものが、ほんの100年前は正しくなかった。
いや、おいらが生きている短い期間ですっら「正しい」の意味は変わり続けている。
自分が正しいと思うものを信じて進むしかない・・・なんて言葉を全く信用していない。
自分は正しいのかと常に問いながら進むしかない・・・が、本来じゃないのだろうか?
江戸時代の正しさ、戦前の正しさ、戦中の正しさ、戦後の正しさ、平成の正しさ。
どれもこれも、違うじゃないか。
西部邁さんの入水を手伝ったと逮捕された人がいた。
それを聞いた時、どこか同情してしまう自分がいた。
法を越えたところで付き合い、考え、実施したのだろう。
法では正しくないけれど、本人にとっては、どうだったのだろう?
どこか、理解できる部分があると思ってしまう自分。
けれど、ある世代からすれば「ダメに決まってんじゃん」で終わるのかもしれない。
世代で区切るのはあまりにも強引で個人で意見は違うのだろうけれど。
全体的な空気と言う意味では、世代で、きっとギャップが出てくる。
そこで、同情できちゃうから昭和生まれはダメなのかもしれない。
そうやって、自分を疑うようにしている。
疑問を持って、自分で考えるようにしている。
色々なことがもっと曖昧だった時代を知っている中で、今、どんどん厳しくなっている。
体罰だって、パワハラだって、大相撲の問題だって、どこか同情できる部分を残している自分が違うのかもしれない。
駄目なものはダメ。
コンプライアンスってのも、つまらないなぁと思いながら。
つまらないじゃなくて、ダメなんだと理解できるのが、現代を生きることなのかもしれない。
それでも、現代の、平成の正しさをも、疑いながら進んでいきたい。
そこに大義なんかない。そこに正義なんかない。そこに正しさなんかない。
あるのは事実と、それをどう感じるかどうかだけだと。
戦後の新劇の中には、社会主義的作品を中心に活動した劇団も多い。
チェーホフは、市民を中心とした作品を初めて書いた人だ。
その作品群は、社会主義的な思想が色濃く影響している。
思想的背景を持った劇団はとっても数多く存在していた。
逆に戦中は、戦意高揚を促すような作品だってあった。
学生運動の中、反戦フォークが流行し、戦時中は軍歌が流れた。
演劇や音楽や、多くの文化が、思想を拡げるために生まれていった。
「正しさ」を確定するために。
監督の作品にももちろんメッセージがある。テーマがある。
でも「正しさを確定」するような作品は今の今まで観たことがない。
何が正しいのかは、お客様がそれぞれ考えることだというスタンスを変えたことがない。
様々な立場の登場人物が出るし、それぞれの立場の人が正しさを持っている。
けれど、その正しさを比較するのも、どちらが正しいのかも、答えは出さない。
とても公平だなぁと思う。
監督もどこか「正しい」を疑っているなぁと感じる。
そこが、監督の作品を演じ続けたいと思う理由の一つだ。
トマホークが100発以上、空を飛んだ。
正義のために。
人を殺す化学兵器を根絶するために。
そしてそれを日本政府は支持した。
隣国は大量破壊兵器を開発している。
けれどまるで対岸の火事のように報道されている。
化学兵器の恐ろしさも、ミサイルの恐ろしさも。
モニターに映し出されるだけだ。
正しさだけが、議論されている。
偏向報道ですらない。