カンヌ国際映画祭のノミネート作品が今年も発表された。
今年の邦画はどうなるだろう?
世界で認められるような映画を製作する土壌は絶対に必要だと思う。
今も世界中に日本映画ファンはいて、注目している人だっている。
それでもやはり邦画の主軸は、国内での興行になるわけで。
世界と国内で二極化していくのがベストなのか、すごく谷間の時代なのかもしれない。
かつての日本の映画は数社の映画会社が競っている中で生まれていた。
東映の映画と、東宝の映画では、なんというかカラーが違った。
当然、監督のカラーと言うものもあるはずなんだけれど、会社のカラーがあった。
大部屋制度で俳優まで区分けされていたのも大きかっただろう。
或いは、スタッフの多くを共有するのだから当たり前だったのかもしれない。
独自色が濃くなれば、それはオリヂナリティを生むという事だ。
東映ヤクザモノなんて言われたら、なんとなく、あれね。って作風まで感じることが出来る。
当時の日本映画のファンが世界中にいるのは、一つのヒントなのかもしれない。
今は、良い意味でも悪い意味でも、ボーダーレスだ。
インターネットは地球の裏側にあるものも簡単に見つけ出せるツールだ。
境目が曖昧で、プロジェクトは、ジャンルにこだわらずメディアミックスをしていく。
世界の映画祭で話題にならなくても、世界中からPOKEMON映画を観に来る人がいる。
そういう中で、独自色、ユニークであり続けることというのはかつてよりも難しいのかもしれない。
情報は開示され、俳優はどの映画会社にだって出演できる。
監督もスタッフも映画会社の社員ではなくなっていっている。
邦画に興味がなくても、海外の映像をネットで検索することだってできる。
邦画と言うくくりも、会社ごとのくくりも、アジア映画と言うくくりでもいい。
とにかく、その境界線なんて、どんどんかき消されて行っているように思う。
だとすれば、それを良い意味に捉えて、もっともっと面白いことが出来ると思うのだけれど。
セブンガールズがやろうとしたことは、やっぱり魅力的だと思う。
日本の小劇場というマイナーな世界の中の、しかも何年も続く劇団が映画製作をする。
それは、当然独自色を持っているし、劇場に足を運んだ人しか知らない世界。
問題があるとすれば、じゃぁ、その映画を最終的にどうやって興行に結びつけるかで。
いや、それこそが根本的な大問題なのかもしれないけれど。
そういう場所から映像を発信し続けることが出来れば、きっといつか世界が驚くことは可能だと思う。
そして、それは、日本の新しい文化発信にまで広がるようなプロジェクトだ。
劇団という小さなコミュニティだけじゃなくて、日本には様々な小さい集団がある。
インターネットが生んだボーダーレス化は、組織の大きさも、メジャーマイナーも軽々と飛び越える。
どこかで火が付けば、それは一気に世界まで旅立てることになる。
映画の撮影が終わっても、劇作が止まることはない。
簡単に次の映画の撮影に進むことは出来ないだろうけれど、劇作は続く。
前の作品を振り返り、新しい作品を模索して、もっと面白いものを創ろうとする。
その繰り返しは、延々と続いているのだ。
これをもっともっと、発信しなくてはいけない。
世界が驚くまで、発信する方法を考えなくてはいけない。
おいらは、いずれ、カンヌに行きたいなぁと、今も本気で思っている。
セブンガールズという作品がマルシェに行ったけれど、マルシェではなくて、映画祭にだ。
もちろんそれがどんな形になるのかなんて、なんにもわからないけれど。
役者としてでも、製作だとしてでも、監督や脚本、編集、スタッフ、なんでもいい。
その形は何でもいいし、実際に現地に行くことが出来る必要もない。
ただただ、自分の関わった作品が、カンヌの地の映画祭で上映される・・・。
そこにいずれ辿り着きたいと、強く強く思っている。
このチャレンジは、ただ一発狙ったんじゃない。
いつか意味が出てくるものにしないといけない。
賞が欲しいとかそういう事でもない。
世界に向けて発信するという、もっと根本的な部分だ。
セブンガールズの公開へのカウントダウンは始まっている。
この映画が目指したことは、やっぱりすごいことだ。面白いことだ。
世界の端っこにいるような錯覚を覚えてしまう小劇場のカルチャーの中から。
すでに世界にはボーダーがなくなったことを証明しようとした。
その作品が公開するのだ。
多分。
思うだけだから夢だと言われる。
やれば、それは現実だ。
やり続けよ。
例え、それが下北沢の小さな劇場だとしても。
そこから、世界を睨み続けるのだ。
必ず、そこに向かって。
ここも世界の中心だと。
いつか。これを読んだ人は、思い出す。