サッカーの日本代表のハリルホジッチ監督が解任された。
W杯直前と言うタイミングに大騒ぎになっていた。
このBLOGに前にも書いたけれど日本のこの「監督」という仕事はとても幅が広い。
英語でも、それ以外の国でも、「監督」という言葉はどうやらない。
スポーツチームの監督。
映画監督、舞台監督、現場監督。
全て、英語では違う単語で表現される。
少なくとも、映画監督とスポーツチームの監督は、全然違う言葉で表現される。
ディレクターとマネージャーを同じ言葉で表現するなんてありえないのだ。
でも、日本では、同じ「監督」という言葉で表現される。
面白いのはこの「監督」がなんだったら動詞的に使われることもあることだ。
子供たちを監督しておいて。なんて使われ方もする。
多分、海外における監督業と、日本人にとっての監督って、ちょっとだけ意味が違う。
いわゆる海外における監督は、指揮官以上の意味はない。
責任を取らされることはむしろ日本よりも多いぐらいなのだけれど、それも勝敗の責任だと思う。
今回の解任会見で、勝敗で決めたのではないという言葉はとても象徴的だった。
多分、英語で言うのであれば、リーダーの意味も日本の監督には含まれている。
誰だって、日本人であれば、監督はリーダーだと思っているはずだ。
むしろ、リーダーではない指揮官なんて想像も出来ないんじゃないだろうか。
今回の解任劇にそういう根っこを感じた。
指揮官としての失格と言うよりも、日本人の持つリーダー像としての失格だった。
実はハリルさん、好きだったんだけどなぁ。
世界標準の戦略というのも観たかった。
選手選考だけはちょっと不満があったんだけど・・・。
その人間的な感じとか、弱者に対しての優しさとか、妥協しないところ。
それに、物おじせず日本のサッカーを批判できたこともすごいなぁって思ってた。
日本人リーダーにはあり得ない振る舞いだったのかな。
戦術に合うのか合わないのか一点だから、ドライに感じた部分もあったのかもしれない。
多映画監督も、日本人の思うそれと欧米では感覚的に違うものを感じる。
インタビューであったり、残した言葉を観ても、海外の映画監督は映画の中で1アーティストであろうとする。
プロデューサーの領分には踏み込まないし、役者とも対等に話している。
不必要なリーダーシップは避けているような人もとても多い。
少なくても、役者に芝居を教えているような監督はあまり観たことがない。
役者が芝居を覚えるのは、アクターズスクールだという割り切りを感じる。
演出前のことは、オーディションまでにクリアされているという感じだ。
うちの監督は、どうなのだろう?
でも、従来の日本人的な監督と言うのとは明らかに違うと思う。
リーダーではあるけれど、リーダーシップと言う場所には余りいたがらない。
そこは決めてください!と言っても、決めないことだってある。
セブンガールズの現場では、たくさんのOKという決定を出したけれど。
それに現場に入る前に、たくさんの稽古を重ねたけれど。
それでも、日本人的なリーダーと言う感覚とは少し違ったと思う。
おいらは、今でも主宰として、監督には全てを報告する。
決定事項があれば、全て決定してもらっている。
これでもいいですか?なんていうお墨付きをもらうようなことはあまりしない。
別にいいよって言うに決まっているし、それが決定とは違う意味だと知っているから。
ある程度選択できるところまで行って、決定を出してもらうようにする。
でも、本当は、そういう場所はそんなに好きじゃないんだろうなって気付いている。
多分、リーダーとかじゃなくて、アーティストでいたいんだろうなぁって、いつも感じている。
お前らで決めろよと思っていることだって本当はたくさんあるはずだ。
そこは多分、周りにいるおいらたちが、寄っかかっている部分なのだ。
日本人は常にそういう監督であったりを用意してきた。
実質的に政権を失っても天皇家が存続した理由の一つは、そういう存在が必要だったからだ。
それだけが理由じゃないにしても、時の為政者たちは何度もそれを利用してきた。
映画監督には解任はないけれど。
サッカーの監督と同じように、リーダーシップと責任まで求められている。
それは、大変なことだぜと、今更ながらに思う。
ハリルさん。
勝敗でもなく、戦術でもないとすれば。
きっと、戸惑っているんじゃないだろうか。