人の疲れ方には何種類かある。
肉体疲労、精神疲労、気疲れ。
単純に肉体的に負荷をかけ続ければ、筋肉系統の疲労がある。
頭を使い続けるのも、ものすごい疲れがたまっていることに気付く。
考えすぎで頭が痛くなるほどだと、眠りが深くなったりもする。
それと見知らぬ人の中にずっといるだけで気を使いすぎて疲れることもある。
精神的なストレスも、一気に来ると、そのまま体調に現れたりする。
演劇において、俳優はこの3つの疲れとの戦いだ。
ダンスや殺陣などのパフォーマンスによる肉体疲労。
常にセリフ、段取り、ちょっとしたトラブルの対応などへの、頭脳疲労。
そして、衆人環境という人に観られているという、精神的ストレス。
3つの負荷が、常にかかっている状態。常態。
ただ意外かもしれないけれど、慣れで解決できる部分もある。
集中力には限りがあるなんて言うけれど、気付けばあっという間に時間が過ぎていたこともある。
終演して初めて、どっと疲れだけが来るというような状況だ。
ただ、その慣れでもクリアできない疲れがある。
実をいうと第4の疲労がある。
それは、情感の疲労だ。
3つの疲労は、誰でも日常的に思い当たると思う。
水泳の帰りの疲労や、勉強の疲労、会議の疲労、誰だってどこかで日々感じていることだ。
ただ、情感の疲労は、特別な時にしか感じることはないはずだ。
例えで出すのはなんだけれど、耐えられないほど悲しいことがあって泣くと、信じられないほど疲れるはずだ。
まるで、自分のスイッチをオフにしたかのように、気絶したように眠ってしまうほど。
演劇は、劇的なシーンを演じるから、そういう情感の強いシーンが必ず入ってくる。
全員がそういうシーンに出るかどうかは別として、誰かは確実に心が震えるようなことが起きる。
演じている本人の心が動いていなければ、お客様の心が動くことなんかあり得ない。
泣いて、怒って、死ぬほど笑って、そういうエモーショナルなシーンを演じると、異常な疲れが来る。
涙を流しても機能的に泣いているだけであったり、怒っていても大声を出しているだけだと、疲れない。
子供の頃、散々泣いて、怒って、泣き疲れて、バタンと眠ってしまったことがあると思う。誰でも。
ああゆう疲れ方って、大人になると、本当に数年に一度になってしまう。
そういう特別な場面を、劇的と言い、その劇的な場面を作品にするから、演劇と言う。
エモーショナルな表現は、大脳生理学的にも疲労して当たり前だと聞く。
普段使わないような脳細胞が活性化されるだけではなくて、様々なホルモン分泌があるそうだ。
それは、マラソンランナーにおける、エンドルフィン分泌にも近い。
肉体的な負荷があるレベルを超えると、脳内でホルモン分泌をして、負荷を和らげる。
いわゆるランナーズハイになると言われているあれだ。
その瞬間に負荷を和らげて、リミットを外す。
日常では使えないような力も、リミットを外れて使えるようになる。
それは、他のスポーツでも、ゾーンであるとか、様々な言葉で表現される状態。
今のコンピュータの最新の技術がAIであるように、情感が強いというのは、ものすごい脳に負荷を与える。
だから、その負荷を処理するために、少しだけリミットを外す。
そうしないと、人間は耐えられない。
気持ちが暴走してしまいかねない。
例えば、涙を流すこともなく、表情が変わるわけでもなく、ただ歩いていたとしても。
その内部で、情感が動いていれば、とんでもなく疲れることがあるという事だ。
能の世界は、それをやっているという。
演者は、面をつけて表情での演技は出来ない。動きも制限されている。
けれど、そこには情感の演技が満ちている。
平面で観れば何も起きていなくても、感じることが出来れば、その奥行きが見えてくる。
今、持ち時間がいつもよりも短い芝居をやっていて。
短いのに、いつもと同じか、それ以上に演じた後に疲れを感じている役者を観ている。
自分もわずかな時間ながら、演じると、どっと疲れる。
稽古場で持っている稽古時間を考えれば何度か通すことも不可能じゃないのだけれど。
一回通してしまうと、とてもじゃないけれど、もう一回繰り返しやる気になれない。
それは、きっと、それぞれが役回りの中で、4つの疲労を感じているからだ。
舞台本番がやってくると、この疲労はなんと倍になる。
これは経験則で、なんか数値になっているようなあれではないけれど。
でも、LIVEというのは、稽古とはまったく違うものが出てくる。
緊張感で、負荷は複雑に絡まっていって、情感は更に深くなる。
その上、お客様が感じていること、思っていることを受信していく。
先日、スタッフさんに観てもらった通し稽古の日でさえ、いつもの稽古とは違ったぐらいだ。
まるで禅問答のようだけれど。
そういうエモーショナルな部分に、一歩ずつ踏み込むような稽古を出来る。
なんて、幸せなことだろうか。