2018年04月01日

器と料理

おおよそ自分の人生では交わることのないであろう場所に行く。
挨拶や紹介がてらということだったけれど、結局、色々手伝いながら。
なんというか、感覚的に、とっても貴重な経験になった。

だからと言って、それで世界観や、自分の中の価値観に影響があったわけではない。
自分の中で大事なことや、自分が観たいもの、自分が感じたいこと。
そういう一番重要だと思っていることが、ブレることはなかった。
でも、その自分にとっての大事なことが、そこまで重要視されない場所というのは、世界を拡げた。
いや、拡がるも何も、そういうことは知っていたのだけれど。
体感した。と言った方がいいのかもしれない。
それはそれで、プラスなのだ。
要するに、骨組みがあって肉付きがあるとして。
何を骨とするのか、何を肉とするのかの違いでしかないのかもしれない。
学んだことは、あくまでも、自分にとっては肉にしかならないけれど。
肉付きが増えることは悪いことなわけがない。

パワーとは何だろう?と思う。
間違いなく、ものすごいパワーというのがある。
それは、目に見えるものではないけれど、誰でも感じるものだ。
いわゆるパワースポット的なトンデモやオカルトな話ではなく。
シンプルに都会と田舎では、感じるパワーが違う。
変わり続ける街と、ものすごい人の数と、折り重なった人生と。
そういうものが生み出すパワーは、一体何なのか?
明らかにパワーが溢れる場所に行って、これはなんだ?と考える。

ストイックに、アートの方に進みすぎてしまうのが、実はあまり好きではない。
かと言って、あまりミーハーな感じになってしまうのは本意ではない。
自分が好きなのは、人の作り出すうねりのようなパワーなのだと思う。
小さなライブハウスでも、小さな劇場でも、街角でも、どこかの居酒屋でもいい。
そういうパワーが生まれるような場面に立ち会った時に、いつも、思う事だ。
そういうものを愛してやまない。
人が一人でいる時に、急に弾けそうな感覚になる感じが、いきなり拡張されるような感覚。

仙人のようになりたいと思ったことがない。
田舎に行って自給自足で、のんびり暮らしたいとか、まったく思わない。
心が穏やかであろうとすることは良いことだけれど。
暴れだしそうな自分の中にある何かを抑え込もうとは思わない。
コントロールできるものではないとしても、暴力とは反対に位置する表現に向かうように生きている。
おだやかに生きることは自然との共生だなんて言われても、ちょっと嘘じゃないかと思っている。
だって、野生動物は、まるっきり、おだやかなんかじゃない。
飼い猫だって、飼い犬だって、実はおだやかじゃない。
すぐに興奮するし、すぐに走り出す。
おだやかに生きるって言うのは、自然というよりも、不自然なんじゃないだろうか?
本心を隠しているだけなんじゃないだろうか?
修行僧だって、本当はカルビを食べたいって言うのが、本質じゃないか?
食べたいからこそ、節制するのだろう?

否定したくない。
人の持つ貪欲な部分。欲深い部分。
それを汚いとか、ダメなこととしたくない。
もちろん、それを素晴らしいと肯定するというわけでもない。
むしろ、それを滑稽だと笑いたいと思っている。
そして、滑稽が重なり続けた先に、あいつら馬鹿だなぁという最高の肯定が待っている気がしている。
最終的に、どうしょうもないと思っているものが最高にばかばかしくて、素敵に思えるような。
そんな感じだ。

自分の価値観とは正反対の場所に立って。
それでも、そこは、圧倒的なパワーに満ち溢れていて。
角度を変えれば、余りにも滑稽すぎる場所だった。
それは、おいらにとっての肉になった。

さぁ。
おいらの正体は?
骨なの?肉なの?

結局、すべてが自分なのだから。
そこまで面白がれるのであれば、それが一番だよ。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 04:04| Comment(0) | プロモーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする