おおよそ自分の人生では交わることのないであろう場所に行く。
挨拶や紹介がてらということだったけれど、結局、色々手伝いながら。
なんというか、感覚的に、とっても貴重な経験になった。
だからと言って、それで世界観や、自分の中の価値観に影響があったわけではない。
自分の中で大事なことや、自分が観たいもの、自分が感じたいこと。
そういう一番重要だと思っていることが、ブレることはなかった。
でも、その自分にとっての大事なことが、そこまで重要視されない場所というのは、世界を拡げた。
いや、拡がるも何も、そういうことは知っていたのだけれど。
体感した。と言った方がいいのかもしれない。
それはそれで、プラスなのだ。
要するに、骨組みがあって肉付きがあるとして。
何を骨とするのか、何を肉とするのかの違いでしかないのかもしれない。
学んだことは、あくまでも、自分にとっては肉にしかならないけれど。
肉付きが増えることは悪いことなわけがない。
パワーとは何だろう?と思う。
間違いなく、ものすごいパワーというのがある。
それは、目に見えるものではないけれど、誰でも感じるものだ。
いわゆるパワースポット的なトンデモやオカルトな話ではなく。
シンプルに都会と田舎では、感じるパワーが違う。
変わり続ける街と、ものすごい人の数と、折り重なった人生と。
そういうものが生み出すパワーは、一体何なのか?
明らかにパワーが溢れる場所に行って、これはなんだ?と考える。
ストイックに、アートの方に進みすぎてしまうのが、実はあまり好きではない。
かと言って、あまりミーハーな感じになってしまうのは本意ではない。
自分が好きなのは、人の作り出すうねりのようなパワーなのだと思う。
小さなライブハウスでも、小さな劇場でも、街角でも、どこかの居酒屋でもいい。
そういうパワーが生まれるような場面に立ち会った時に、いつも、思う事だ。
そういうものを愛してやまない。
人が一人でいる時に、急に弾けそうな感覚になる感じが、いきなり拡張されるような感覚。
仙人のようになりたいと思ったことがない。
田舎に行って自給自足で、のんびり暮らしたいとか、まったく思わない。
心が穏やかであろうとすることは良いことだけれど。
暴れだしそうな自分の中にある何かを抑え込もうとは思わない。
コントロールできるものではないとしても、暴力とは反対に位置する表現に向かうように生きている。
おだやかに生きることは自然との共生だなんて言われても、ちょっと嘘じゃないかと思っている。
だって、野生動物は、まるっきり、おだやかなんかじゃない。
飼い猫だって、飼い犬だって、実はおだやかじゃない。
すぐに興奮するし、すぐに走り出す。
おだやかに生きるって言うのは、自然というよりも、不自然なんじゃないだろうか?
本心を隠しているだけなんじゃないだろうか?
修行僧だって、本当はカルビを食べたいって言うのが、本質じゃないか?
食べたいからこそ、節制するのだろう?
否定したくない。
人の持つ貪欲な部分。欲深い部分。
それを汚いとか、ダメなこととしたくない。
もちろん、それを素晴らしいと肯定するというわけでもない。
むしろ、それを滑稽だと笑いたいと思っている。
そして、滑稽が重なり続けた先に、あいつら馬鹿だなぁという最高の肯定が待っている気がしている。
最終的に、どうしょうもないと思っているものが最高にばかばかしくて、素敵に思えるような。
そんな感じだ。
自分の価値観とは正反対の場所に立って。
それでも、そこは、圧倒的なパワーに満ち溢れていて。
角度を変えれば、余りにも滑稽すぎる場所だった。
それは、おいらにとっての肉になった。
さぁ。
おいらの正体は?
骨なの?肉なの?
結局、すべてが自分なのだから。
そこまで面白がれるのであれば、それが一番だよ。