2018年04月18日

作家は語らない

映画の宣伝を色々観ている中で。
やっぱり、監督自身が「面白いです」とか「良い映画です」なんてコメントを出すケースは殆どない。
冗談ぽく言ったりする場合はあるけどさ。
それは別に映画だけではなくて、例えば、小説でもいいし、漫画でも良いのだけれど。
作家が、作品を面白いと宣伝するなんてことは、難しいことだ。
大抵の映画監督は、見どころは誰だれのこんな芝居ですとか、素晴らしい原作で・・・とか。
とにかく、自分の作品は、当然、自分のあらん限りの力で創っているわけで。
それ以上のことは出来ないのだと思う。
凄く面白い映画ですよ!と宣伝をしているのは、常に出演者たちだ。

色々と勉強している中で。
今、自分で5月の舞台の作・演出をしていて。
ああ、これは、言えないなぁと実感している。
胸を張って、舞台に立つし発表するけれど。
だからと言って、面白い舞台だよ!とか、凄い舞台だよ!というのは中々難しい。
そう思って稽古をしているし、そう思って考えて書いているのだから、言えばいいのだろうけれど。
もしかしたら、そんなふうに言葉にしちゃうのが軽すぎるのかもしれない。
そんな、簡単に面白いなんていうような作業をしていないという無意識がある。
観ていただく以上のことはないから、言葉では軽すぎる。

映画作品のHPやチラシには、大抵、監督のプロフィールが掲載されているけれど。
「天才的な・・・」とか、「話題になった・・・」とか、やっぱり書かれている。
本人もチェックする場合があるのだろうけれど、きっと恥ずかしいだろうなぁ。
いつも、舞台の宣伝では、一度、監督にチェックしてもらったり、監督にあらすじやキャッチを考えてもらったりするけれど。
やっぱり、映画ではそういうわけにはいかないなぁと思う。
まぁ、嘘を書くつもりはさらさらないけれど、控えめにしてしまうのはやっぱり良くない。
宣伝は、宣伝と言う客観性が必要で、監督自身が触ってはいけない領域なのだと思う。
なんだったら、宣伝方法や宣伝文句、キャッチコピーを観て、文句を言っているぐらいが普通じゃないだろうか。
そう考えないと、理解できないような宣伝も意外に多い。
自分がこの作品の監督だったら、こんなに大袈裟に書かれちゃうと困っちゃうだろうなぁと思うような宣伝が。

映画会社であれば、宣伝部や営業部、様々な部署との打ち合わせの上で、決まっていくものだ。
プロデューサーの仕事の中心にあるもの。
そこに、どこまで提案できるか。
一歩でも二歩でも、前に進んでいかないと。

そういえば、演劇のチラシは、A4が多いのだけれど、映画のチラシって、B5ばかりな気がする。
なんでなんだろう?
不思議だけれど、単館映画館などのラックは、もしかしたら、B5がちょうどよい大きさかもしれない。
昔の映画館は、扉の外に棚みたいなのがあって、灰皿があって、革張りのベンチがあって。
チラシを適当に集めて、煙草を吸いながら、よく読んでいたなぁ。
記憶に残るチラシは邦画ばかりだけれど、マイナーな洋画なんかも置いてあった。
前衛的なデザインのチラシなんかもあって、面白かった。
今は、どうなのだろう?
煙草を吸いながらゆっくり観るのは、中々難しい時代だから。
まとめて持って帰って、後で、喫茶店で読むのかな?
それだと、ちょっと、自分としては違うのだけれど。
あの時に置いてあったラックは木製で、チラシとぴったし同じ幅だった。
まぁ、あんなラックが今の映画館にあるわけがない。
今は、プラスティックの、綺麗な奴なんだろうから、A4でも良いかもしれない。

イメージをばくぜんとした状態から汲み上げていく。
提案出来るなと思える状態から、たたき台として、送るつもりだ。

監督がコノヤロウ!って口にしちゃうような、宣伝が出来れば、本当は一番いいんじゃないだろうか?

かっこいい映画だから。
かっこいい宣伝が出来るといいなぁ。
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2018年04月17日

覚悟の一歩

5月の舞台「カクシゴト」の初日まで一か月となった。
時間で言えばまだまだあるような気もするけれど。
稽古回数を考えると、これからの時間が大事だ。
もちろん、そこまで考えて、前倒しで進んできたけれど。

作品の稽古と仕上げとは別に準備に入らないとだ。
公演初日に、映画「セブンガールズ」の情報の一部を開示する予定だ。
その為の準備までも残り一か月だという事だ。
焦っても仕方がないけれど、じっくりと手を入れていかないとだ。
印刷物、WEB、SNS・・・。
一つ一つ考えていかないといけない。

そう考えると5月は大事な公演。
ここで何をするのか、何が見えるのか。
それは、そのまま未来に直結する。
そういう作品にしたし、そういう稽古をしている。

映画でも舞台でも同じ。
お客様に何かをプレゼントしなくてはいけない。
何かを持って帰ってもらわなくてはいけない。
心が動くという体験をしてもらわなくてはいけない。
そうじゃなければ、自己満足になってしまう。
常にお客様の方向を観ているというのは、一つの保証だ。
この人たちは裏切らないという保証だ。

作品の面白さ、役者の個性や演技、メッセージ。
そのどれでもいいのだと思う。
そのどこにクオリティを求めるのかという部分も含めて。

いつも監督に寄っかかっている自分がいる。
作品の評価は常に監督の責任になる。
台本を書いてくれ、演出をしてくれ、やってくれ、やってほしい。
でも実際にそれを公開すれば、その作品に対する評価は全て監督に向かっていく。
役者は、役者としての評価や、なんだったら演技じゃない部分も、評価されることだってある。
けれど、作家、演出家、映画監督は違う。
作品以外の評価を受けることはない。
良い評価ばかりならまだしも、それだけではない。

今回の舞台でそういうものを断ち切った。
本当は、監督が作品を書かなくてもいいとまで思っていた。
今は、映画の公開前だから、映画の評価が待っているから。
寄っかからない。
作品に対する評価を・・・たとえどんな評価だとしても・・・受ける。
そこを越えてから、映画公開に立ち向かえることが出来るのは良かった。
経験はあるけれど、それを体感しない事には、製作や編集までした自分として映画公開に立ち向かえない。
その全ての責任を監督に寄っかかって、映画公開なんて無責任なことはしたくない。
自分の評価として、映画の評価を受ける覚悟をしておこうと思っている。
もちろん、監督の作品だし、皆の作品だけれど。
精神的に、そういう覚悟だけはしたい。

過去に舞台作品を発表した時も。
バンドでCDを出したり、ライブをした時も。
ショートフィルムを創った時も。
同じように、自分で責任を背負った。
本当にね。100人に褒められても、一人の言葉で深く傷つくことだってあるんだ。
それは、役者という立場だけではそこまでの傷にならない。
批判的な言葉でも全然傷つかないことがあるのに、褒められた言葉の中の一節に傷ついたりさ。
でもきっと、それが作品を自分に重ねている証拠なのだと思う。

お笑い芸人がさ。
営業に行って、すべって、帰りの電車でずっと吐きそうだったって笑って言ってるけれど。
あれ、本当に吐きそうで、本当にしんどくて、本当に傷ついてるんだよ。
笑わせる仕事と言う中で、ネタを作って練習して人生をかけて挑んでいる。
その傷つき方は、なんというか、自分が全否定されているのと変わらない重さだ。
それはきっと、作品に対する責任と同じものだ。

5月の公演は、おいらにとって、覚悟の一歩なのだ。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 03:42| Comment(0) | プロモーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月16日

腑に落としながら

稽古日。稽古だけは変わらず続く。
早めに行って最初の班の稽古を見学。
その前のフリータイムも稽古をやっていた様子だった。

観ていると、ちょっと、面白いぞと気付くことがある。
俳優としての自分が、こうやった方がいいなぁと思う部分と。
演出をしている自分が、ここはこう言った方がいいなぁと思う部分と。
その両方が同時にあることだ。
演出と言っても、自分が俳優だからわかる役者の生理で話をしているわけで。
それは同じもののはずなんだけれど、でも、どうやら少し違うんだなぁと気付く。
自分ならこうやる、自分ならこう言う。
その二つを頭に思い浮かべながら、でも、特に口は出さないようにする。
この班にはこの班の演出家がいる。
自分が納得するところまでやればいい。

来週からは、全ての班で合同の稽古になる。
全員が観ている環境で全員が稽古をしていく。
作品も作家も演出家も出演者も違うけれど同じ興行。
全体感だってある。
作品同士のバランスや、例えば衣装がかぶったりとかもあるかもしれない。
全体の中で、自分の作品に取り組むというのも大事なことだ。
同じ興行と言う意味では、別の班に、意見を言う人も出てくるかもしれない。
どの作品も良い作品になって欲しいのだから、当然のことだ。
まぁ、おいらは、そうそう口は出さないつもりだけれど。
一つの作品で演出をしている以上、中々、厳しい。
逆に出演者たちは、少し自由に意見を交換できるようになるかもしれない。
それは、それで、プラスになっていけば素晴らしいことだ。

今週の稽古は少しペースダウンをした。
先週まではどこをやるか、どこを強化するか考えていたのだけれど。
先週の稽古で、観念的なことを随分、口にしたから、チェックに近い稽古で良いと思った。
まぁ、やり始めれば、中々そうはならないのだけれど。
感情的な部分と肉体的な部分が、一致するには、相手役のいる環境で演じてみなくちゃいけない。
先週の観念的な部分をふまえて、その上で演じてみる、繰り返してみる。
その中で、徐々に、自分の中での心身一致をしてくれたらいいぐらいに思っていた。
ディティールを詰めていったりもするけれど、それがしっくりくるのは、その次の次ぐらいだ。
そのぐらい繊細な作業にまで進んでいると思っている。

でも、稽古場でいくら稽古しても稽古しても、完成することはない。
ここに照明が灯って、音楽が流れて、セットが建って、そしてお客様がいて初めて完成する。
その全てを想定の中で稽古をしているのだけれど。
大抵はその想定を軽く上回ってくる。
照明が入った瞬間に、絵が大きく変わる。
音楽が流れた瞬間に、気持ちの乗り方が変わる。
セットに立った瞬間に、役への入り方が変わる。
お客様の反応を感じた瞬間に、ものすごく生身な自分が表出する。
そういうことは必ず起きる。
それまで、完成することはない。

飽きるまでやって、飽きてからもう一度組み立てようと思っていたけれど。
どうやら、飽きることがないようだと気付く。
やってもやっても発見があって、やってもやっても面白い。
そういう作業になったか。
そういう稽古になったか。

悲しいとか、寂しいとか、切ないとか、そういうことじゃなくて。
自分の中で思いが溢れて泣きそうになる瞬間がある。
そういう感覚を稽古の中で見つける。万感。
泣かないけどさ。
これはとっても不思議だ。
込み上げてくるもの、どこからかやってくる溢れる水。
生きているとは、こういうことだと思わせる、圧倒的な実感。

その後、監督の稽古を観る。
監督の真後ろにいるおいらは、役者の芝居の手前に監督の背中がある。
今日の背中は、なんというか、余り観ない背中だった。
演出をしているのに、演出ではないもどかしさを背中が語っていた。
どうやって、ここから纏めていくのかな。
背中はまだ答えまでは出していなかった。
普段の公演だったら、おいらは多分、この背中を観ることはない。
そして、きっと、口を出している。

考えろ。
まだ芝居は変わる。
まだ発見は続く。
自分だったら、なんて言うだろう?どうやって演じるだろう?
考えろ。考えろ。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 02:55| Comment(0) | プロモーション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする